滋賀県長浜市西上坂町 | |
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JR長浜駅から東の国道8号線へ、北へ歩いて川崎町から37号線をひたすら東、「東上坂町」から300mほど手前、道路の北側30mには、上坂城(こうさか)があります。 | |
ここは浅井氏家臣・上坂氏の館跡だね。 長浜の下坂中町には下浜氏の館もあるよ。 道路の近くと思って、随分探した。 2回は往復、やっと北側に公園が見える。 ここだったんだ、意外と思う所だよ。 |
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公園に入るとなにやら藁ブキの門、奥に進むとお城の碑があるよ。 ここから丁度、北方向に姉川の合戦跡がある、古戦場へ行ってみるね。 でも東からぐるりと回って橋を渡らなければ、川に落ちてしまうよ。 これが意外と遠いよ。 |
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戦国時代の武人であった上坂氏の館跡です。 上坂氏は、室町時代から北近江の守護・京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。 しかし、大永3年(1523)、京極家の内紛により信光は失脚、代わって浅井家が台頭し戦国大名となるのです。 家信、信光は、代々治部丞を名のりましたが、浅井氏の治世下になると、伊賀守を名のる上坂氏が史料に表われます。 伊賀守意信(おきのぶ)は、浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・秀長の家臣として各地に転戦しています。 関ケ原の合戦の時、西軍となり敗れて帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から跡式識を受け取りました。 なお、伊賀守の相伝文書である「上坂家文書」が、西上坂町共有として現存します。 上坂氏は、中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し、北郷里地区を灌漑する「郷里井」の管理者として知られ、姉川上流や右岸の村々との争いに際しては、その代表者としてのぞみました。 館跡は、土塁と塀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残します。 また、江戸時代の絵図(上坂家文書)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園です。 浅井氏家臣の館跡として、下坂氏館跡(長浜氏下坂中町)と共に貴重な史跡といえます。 『現地案内を参照』 |
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