滋賀県大津市下坂本町 | |
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JR湖西線比叡山坂本駅の湖側辺りが、明智光秀の坂本城跡(さかもと)です。 10年ぐらい前の夏、日照りが続き琵琶湖の水位が例年になく下がり、湖中から坂本城の石垣が現れました。 今回は、当時の写真を掲載しています。 |
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宣教師フロイスの「日本史」には、安土城を除けは、この城ほど有名なものはない、と書かれています。 安土城は、坂本城より五年後に着工されて、その築城は坂本城も参考にされたといわれています。 琵琶湖の水を引き込んで、堀に利用する技法は、のちの大津城、膳所城(ぜぜ)にも活かされています。 廃城後の資材は大津城に使われ、坂本城の姿は想像することしかできなくなりました。 |
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連日、ニュースで水不足と琵琶湖水位が報道され、暑い中沢山の人が見に来られていました。 普通の年なら、たぶん橋げたぐらいまでが水面だと思います。 |
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元亀二年(1571)、織田信長は比叡山を焼き討しました。 その後、明智光秀に命じて琵琶湖西に城を築かせたのが坂本城です。 この城は比叡山延暦寺の監視と、日本海から物資を京都へ運ぶ拠点の役目をしていました。 天正七年(1579)、光秀は丹波を征服し、翌年には亀岡城主になり、ここ坂本と亀山の二つを拠点としました。 そして同十年に、亀山城を出陣した光秀は、京都本能寺で織田信長、二条御所で信忠を討ったのです。 しかし、光秀は山崎において羽柴秀吉軍と決戦し、わずかな郎党とともに坂本城へ落ちのびる途中、小栗栖で土民に殺されてしまいました。 その時に、安土城にいた弟・明智秀満(光春)は、秀吉側の堀秀政に陸路の瀬田を塞がれてしまい、琵琶湖に馬を乗り入れ、人馬一対で坂本城に帰ったという伝説が今も語り継がれています。 翌日、 堀秀政によって坂本は落城しました。 のち丹羽長秀の城となり、秀吉が柴田勝家と決戦する時には、重要な役割を果たしましたが、天正十四年に、廃城になりました。 『参考文献を参照』 |
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