横山城

滋賀県長浜市堀部町

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JR長浜駅から509号線を東へ歩く、北陸自動車道を越えて2kmぐらい、石田屋敷跡の東の山には横山城があります。
  
  
長浜市と米原市の境界、標高312m臥竜山(がりゅうざん)の山頂にあります。

石田山公園となっているけど、今は11月。 誰もいなかった、麓の石田三成祭があるからなか。
 
  
何ヶ所か上れる道がある、祭りの歌声かな、町内の放送が聞こえてる。

今回は県道沿いの日吉神社から、これがけっこう長い距離、この公園は広すぎるよ。

すっかり静かになる、やっとお城跡、堀切だね。
  
   
虎口や土塁の標識があるから、よく分かるよ。
でも郭は発掘調中、入れなかった。

もうすぐ山頂、ここにも秀吉が来ていたのか。 最近、岡山の備中高松城に行ったけど、電車もない時代のこと。

すごい行動範囲だよね、大きく生きていたんだ。 
   
   
琵琶湖の北半分まで来ると、いつでも見えていた。 いつの日か追い越そうと思っていた、やっと追い抜いたよ。

でも、やっぱり大きい山だよ、追い抜いたなんて、小さすぎる言葉だった。 さあ北へゆっくり歩こうよ。 
   

   
横山城は、長浜市と米原市の境界をなす横山丘陵(一名臥竜山)の最高所(標高312m)を中心に三方の尾根にY字状に遺構が配置されています。

その主な施設は、四十ヶ所以上の曲輪からなり、いたるところで土塁・堀切・竪堀などの防御施設が設けられ、その機能は堅固で典型的な戦闘用の山城であったといえます。

この城は、当初京極氏の支城として築かれたと云われ、その後六角氏と浅井氏との対立激化にともない、それぞれの前進基地として争奪が行われ、浅井氏の勢力が拡大したことにより浅井氏に南進基地として役割を果たしました。

この城が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)の姉川合戦とそれ以降の織田氏・浅井氏の攻防においてです。

ここ江北の地(湖北地方)は、古くから北国や東国から京都に通じる交通の要衝の地にあたり、全国平定を目指す信長にとっては、そのおさえとして姻戚関係を結んでいた浅井氏の離反は大きな脅威でした。

また、前方の延暦寺・石山本願寺・背後に武田勢、南に長嶋の一向一揆、さらに北には浅井氏と手を結んでいた朝倉勢と、信長・秀吉主従にとってこの時期は多難な状況でした。

姉川合戦により浅井氏から奪った横山城を預かった秀吉は、その後何度かの浅井氏の攻撃にもかかわらず、浅井氏滅亡の天正元年(1573)までの約三年間守り通し、浅井・朝倉勢を牽制することにより信長の背後を守りました。

信長自身も本願寺攻め・小谷攻めに際して、何度も本拠地として利用するなど重要な役割を果たしています。

また、この城は秀吉にとってその後の、江北を領有する直接の足がかりとして、さらに全国平定の基礎を築いた城としても、長浜城に劣らぬ重要な歴史的価値を持っています。

『現地案内を参照』

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