島根県安来市広瀬町富田 | |
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米子自動車道、「米子IC」から国道9号線、山陰道の安芸ICから45号線を南へ、広瀬町に入ると飯梨川の東には月山富田城(がっさんとだ)があります。 2006年11月、島根県は出雲の国。 尼子氏のお城、ここで秋の旅は終わるよ。 |
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ついに来ました、尼子氏の月山富田城。 近江から出雲へ移り、勢力を広げていく。 安芸の毛利氏との戦いに敗れ、一旦は滅びる。 山中鹿之介が尼子勝久を奉じて、尼子氏の再興を願う。 でも播磨の上月城で尼子氏は滅亡するんだね。 |
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飯梨川沿いの歴史民族資料館、すぐ横から上ると岩倉寺がある。 奥には堀尾吉晴公のお墓、傍には山中鹿介幸盛公の供養塔、吉晴公の御内儀(妻)によって建てられました。 月山へ向かう道、天には三日月、すごく似合いそうな風景だよ。 |
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道の横は千畳平、太鼓壇、奥書院、花ノ壇と続く。 月山の山麓、ここが大手門だね。 仰ぎ見る石垣、いい形だよ。 |
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「山中御殿」 大手門を越えると山中御殿と云われる広い所。 周囲は石垣、お城の軍事や政治の拠点だったらしい。 山中御殿の奥から七曲を上るよ。 |
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「二の丸」 展望台がある、向こうの山が毛利勢が陣を置いた京羅木山かな。 糧道を遮断、城下の田畑を焼き払い、城は完全に孤立した。 毛利軍は菅谷口、御子守口、塩谷口の三方から総攻撃を開始、ついに落城するんだ。 石垣が焼けた色で残る、月山の城は全焼したのかな。 |
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勝日高守神社がある、山頂だよ。 尼子氏のまもり神、出雲の大国主命が祀られている。 永禄十二年(1569)、山中鹿之介は信長の援助を受け尼子勝久を奉じて尼子氏再興を願う。 天正五年(1577)、織田と毛利の戦いが始まった。 |
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「山中鹿之助」 「われに、七難八苦を与えたまえ」、天にかかる三日月を仰ぎ祈った言葉だね。 秀吉は上月城を尼子勝久、山中鹿之助らに守らせた。毛利氏・宇喜多氏の連合軍に包囲された時、信長は秀吉に上月城放棄を命じる。 城は落ち、勝久は自害、鹿之助も備中松山城へ護送中に殺され尼子氏は滅んだ。 |
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「尼子清定・経久公の墓所」 飯梨川を西へ、洞光寺(どうこうじ)にあります。 右側が清定公、左が経久公だね。 高台にあるお墓、ここから月山が正面に見える、今でもお墓から見守っているんだね。 |
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「亀高駅」 青春時代、本を読み、映画で涙した。 三木巡査が小さな子を保護する駅のホーム。 勉強、仕事、どれもプラスチックの器。 何かが足りない、強さなのかな、深さなのか、ヒビが入るとすぐ割れる。 秋の旅も終わる。 壊したくない気持ち、砂の器が教えてくれる、それが宿命になるんだよね。 |
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富田城は、能義郡広瀬町富田に位置し、飯梨川右岸の月山(海抜189m)を中心にして築かれた復郭式の山城でした。 城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の三つの入口があります。 周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠くことのできない立地条件を具備しており、中国地方における中世城郭の代表的な城跡として重要視されています。 伝承によれば、保元、平治の頃、平氏の部将によって築城されたと云われています。 文治元年(1185)佐々木義晴が出雲の守護として入城以来、それ以後、塩冶、佐々木、山名、京極、尼子、毛利、堀尾の各氏が歴代城主として交替しています。 しかし最も栄華をきわめたのは陰陽十一ヶ国を領有した尼子の時期でした。 慶長十六年(1611)、掘尾吉晴の没するまで四百二十七年に及ぶ間、軍政上の一大拠点でした。 『現地案内を参照』 |
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