鳥取県鳥取市用瀬町用瀬 |
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国道373号線を鳥取方面へ、智頭トンネルを抜け、6kmほどで用瀬の街へと入ります。 その街の東には、標高325m(比高240m)の山頂に景石城(かげいし)があります。 2004年のゴールデンウィーク、ラジオでは高速道30kmの渋滞、毎年恒例の踏み場ない時が過ぎていくね。 |
用瀬町(もちがせ)の集落の東には尖った山が2つあります。 一つが景石城の山、もう一つは頭巾山と呼ばれ、2つの山間から昇る朝日を見て仕事を始めるという話が伝わっています。 |
「芭蕉塚」 53号線から東の集落にある道で登山口を探していると、集落の北端には「芭蕉塚」がありました。 『夏来ても ただ一つ葉の一つかな』 夏、草木が生い茂ってる、でも一枚の葉はやっぱり一枚だけ・・。 と一枚の葉を哀れに思うらしい。 文学の道に進むか、城跡へ進むか。 一枚の葉は城跡へ進んだよ。 |
車で役場の裏手を登りました。 しかし道は降り坂、思い直して引き返すと途中に細い道があります。 細い道を少し、やっと登山口が見え、50m奥には駐車場がありました。 よかった。 |
「水の手」 登山道は途中で2つに分かれます。 道標には右手方向に「水の手」と書かれていました。 ここが、水の手かな。 井戸だけでなく、こういった湧き水も貴重な水資源だよね。 当時は竹と甕(カメ)で水を蓄えていたんだよ。 そして水不足に備えて大きな甕にも蓄えていたんだ、その甕は備前焼が多いらしいよ。 |
「水の手」からは石がゴロゴロと落ちてる。 多分、上から石垣の石が崩れ落ちてきたんだよ。 左は崖、ゆっくりと細心の注意で歩いている時に限って、すべるから内心恐がりながら、普通の顔で進みます。 |
「物見櫓」「二の丸」の曲輪を通って、山頂に着きました。 車で途中まで来れるのに、かなり登ったよ。 右側の風景はその疲れを吹き飛ばしてくれるよ、見てね。 |
本丸の西側になるのかな。 景色の中で、山頂の石は似会うよね。 「少し恐い」の所にも、同じような石だったから、この辺りから転がっていったんだね。 そっちの方が恐いよね。 |
曲輪の東には大きな岩が突き出てる。 山名氏の生野城にあった岩と同じ感じ、ここも最初は山名氏のお城だったから、同じ人物だったのかな。 一族で何か同じ事を考えていたのかは不明である。 |
本丸の南面だよ。 草木で隠れているけど、高さ4mぐらいの石垣がある。 生い茂る草木の中でも、「一枚の葉」のように静かに時を刻んでいるんだね。 |
2004年のゴールデンウィーク、ラジオでは名神高速30km渋滞、まさに日本中の人々が活動してる。 でも城跡は一人。 夏も冬も草生い茂げる雑踏を歩き、更にこの一週間も踏み場のない道で時を過ごしてしまう。 「一枚の葉」はやっぱり一枚。 でも雑踏で過ごすより、目立たない「一枚」でいいんだ。 一人でも、こんなにきれいな景色の中の一枚だからね。 |
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この城が何年頃築かれたかは明らかではありませんが、太平記に延文の頃(1360)既にあったと記されています。 その後、山名の城となりましたが、天正8年(1580)秀吉が鳥取城攻撃の重要な拠点として、磯部兵部大輔にこの城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部氏を城主として鳥取城への備えとしました。 ところが、磯部氏が若桜鬼ケ城に所用のため不在の折、鳥取山名に攻め落とされますが、翌天正9年、秀吉の再度の鳥取城攻撃により、鳥取城は落城、この際磯部氏は許されて再度景石城主となりました。 以下、城下町として用瀬宿を発展させましたが、関ヶ原の戦いに西軍に味方したためお咎めを受け、この城を去らなければなりませんでした。 替わって智頭八東二郡の領主となった山崎左馬介の持ち城になります。 ところが元和元年(1615)、一国一城の端城御禁制の令が出され、この城は廃城となるのです。 今に昔を物語るものとして、下城・馬洗場などの地名が残っており、また本丸・二の丸・物見櫓などの広場と石垣また矢竹の群生が見られます。 『現地案内を参照』 |
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