若桜鬼ケ城

鳥取県八頭郡若桜町

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若桜駅の西側の標高445m鶴尾山には、若桜鬼ケ城(わかさ)が築かれています。

播磨・但馬・美作に通じる要衝の地であり、鳥取城と鹿野城とともに因幡三名城の一つに数えられています。
  
   
天守台・本丸・二ノ丸・三ノ丸・ホウヅキ段・六角石崖、馬場などの曲輪、古城部は複数段の連続した曲輪で構成されています。

黄色い花が一面を飾っていました。
  
  
あまりに石垣が沢山あって、全国でも珍しい「行き止まり虎口」を見るのを忘れてしまいました。

石垣がコの字に積まれて、行き止まりだそうです。 でもどこにあったのだろうか。
  
  
天正八年(1580)の秀吉による鳥取城包囲作戦としてこの若桜城を落とし、但馬の八木城主・八木豊信を置きました。

翌年、鳥取城は落ち、この若桜城には木下平太夫が入り、慶長五年(1600)関ヶ原の戦で敗北するまで在城しています。 
  
  
元和三年(1617)、鳥取藩主・池田光政の領有となり、一国一城の制度でやがては廃城へとなるのです。

昭和16年、八東町富枝の矢部家で「矢部系譜」が発見されました。 この系譜によって今までわからなかった若桜城の起源が解明されてきたそうです。 
  
  
『秋なら紅葉、春ならお花』

『ついに鬼カ城の頂上です。景色がきれいで、登ってきたかいがあります。』

若桜小学生の作品です。

地元では子供達が花や木を植えています。 この歳になって、こんなことをしたくなったのに、小学生からできるのは、とてもうらやましいよ。
  
   
「若桜神社」

元弘3年(1333)隠岐に流された後醍醐天皇が京都に遷幸の際、脱出するのを助けた伯耆国(島根県)の武将・名和長年が参拝して鉾を奉納したと伝えられています。

秀吉の因幡攻めで兵火にかかりました。

広い境内は、シラカシを中心にヒノキやモミの原生林で県の天然記念物に指定されています。
  
  
「若桜宿」

街には白塀の土蔵が建ち並ぶ蔵通りがあり、かつての宿場町として栄えた面影を残しています。 蔵通りはこの場所ではないのですが、歩いてみたい雰囲気の通りです。

若桜町の見所として

「不動院岩屋堂」
弘法大使が33歳の時に刻んだもので『日本三大不動明王』の一つだといわれています。
   
  
「平経盛(つねもり)が隠れた洞窟」

経盛は忠盛の子で清盛の異母弟(兄弟)です。

寿永4年(1185)、壇ノ浦で敗れた平氏の落武者は、源氏の厳しい捜索の目を逃れて、全国の果てに隠れ住んだといわれています。

ここも「隠れ里」と伝えられて、ひそかに再挙を夢みていたそうです。あちこちに抜け穴があり、連絡道となったまさに地下城なのです。

驚いたのは集落の表札を見ると「平家」という名前でした。 全ての家が同じ姓だそうです。 
  

   
鎌倉時代の初め(1200年頃)、駿河国・矢部氏は戦功により幕府から八東若桜郷二十余カ村を賜り、鶴尾山に城を築いたのが始まりといわれ、矢部輝種(てるたね)以来、十六代の居城でした。

応永二年(1395)、島根県出雲の富田城を本拠とした尼子氏は、一時は岡山や兵庫の備前・美作・播磨など「十一州の太守」とまでいわれるほど勢力を持っていました。

しかし毛利元就との抗争で滅亡への道を歩んだのです。

その後、家臣たちは山中鹿之助を中心に、一人落ち延びて東福寺で僧をしていた尼子勝久をたてて再興を願い奔走していました。

因幡に入った鹿之助は桐山城を奪い、そこを活動拠点にしていた頃、鳥取城を家臣の武田高信に奪われた山名豊国に協力して鳥取城を奪い返しています。

その頃、中央では織田信長が京を制圧し、それを知った鹿之助も明智光秀との縁で信長と会い、信長側に付くことになりました。

天正三年(1575)、但馬山名氏と毛利氏の和睦が成立すると、鹿之助は山名氏と毛利氏が通じる拠点であるこの若桜城を攻め落としました。

それを聞いた毛利方の吉川元春はすぐに因幡に入り、草刈景継に若桜城を攻めさせたのですが、急峻な山城のため落とすことができず軍は引きあげました。

しかし吉川軍は私部城を攻め落したことで、城内衆は逃れてこの若桜城に走り込んだのです。

吉川軍はそれを追い、孤立無縁になった若桜城の尼子党は春までもちこたえたものの、やがては自滅して城は落ち、尼子氏が再び因幡に戻ることはなかったのです。

『参考文献を参照』

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