鳥取県米子市久米町 | |
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米子自動車道「米子IC」から西へ走ります。 日野川を渡り米子の街中へ、中海に面した標高90mの山頂には、米子城(よなご)があります。 2006年8月、夏休み。 鳥取県の伯耆は倉吉から一年ぶり、夏休みは日本海が似合うよね。 |
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福伯耆と出雲の国境、遠くから見ると2つの山が見える。 湊山と飯山と呼ばれている。 京都は堀川五条から続く国道9号線は亀岡、福知山を通る。 日本海に出ると鳥取、海岸沿いを走る9号線、米子の街で2つの山、その間を走るんだ。 |
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「旧小原家長屋門」 荒尾家の家臣・小原氏の屋敷門です。 昭和28年、市内西町にあった門を移し、山陰歴史館として利用していました。 市内に現存する唯一の武家建築で貴重なものです。 この門を通り抜けるとグランド、左へ歩くと上る道があるよ。 |
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山麓には「御殿御用井戸跡」、横には瓦が落ちていた。 山道を登ると声が聞こえてくる、おじいさん、娘さん、お孫さん。 夏休み、里へ帰っているんだね。 稲がよく実るから「米子」、降りると美味しいご飯を沢山食べる。 |
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「鉄御門跡」 明治維新、各地のお城が取り壊された。 米子城は37円で買い取られて解体されたらしい。 一国一城令、明治維新の解体、世界の戦争、全てなければ日本は天守閣がいっぱいだよ。 人が街の風景を変えていく、山や海は昔から同じなんだ。 |
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「天守台」 湊山には2つの天守があった。 吉川氏が築城した四重の天守、その横に中村氏は五重の天守を築くんだ。 本丸の西は二の丸、横田内膳が守ったから「内膳丸」と呼ばれている。 国道の向こう飯山は三の丸だったんだね。 |
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9号線は西へ走る、堀尾氏の松江城、出雲は尼子氏の月山富田城、終点は山口県の周防だね。 左は見えないけど日本海、右側遠くは大山、船上山かな。 吉川広家時代から城下町が造られた、いつもお城から街を見ているよ。 一年が早すぎる風景、思い出すのは去年の夏休みかな。 |
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永禄九年(1566)、毛利氏は尼子氏の月山富田城を落とし、米子城には毛利方の守将を置きます。 永禄十二年(1569)、山中鹿之助は尼子氏の旧臣を集め、和泉国で主家再興の旗を挙げました。 元亀二年(1571)、尼子十勇士の一人・秋上久家は毛利方の尾高城を攻めるため、まず米子城を攻撃、しかし陣中で病に倒れると、家臣・羽倉孫兵衛が海上から攻め、米子城将・福原元秀を討ちました。 対する毛利方の吉川氏は、伯耆から因幡へ反撃を拡大し、天正六年(1578)、ついに播磨上月城で尼子勝久は自刃、山中鹿之助も命を奪われ尼子氏は滅亡するのです。 その後、吉川広家は出雲の富田城から米子に本拠を移し築城工事を始めます。 |
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慶長五年(1600)、関ケ原の戦いで広家は西軍に属します。 この戦いで敗れ、周防の岩国へ移封、その後は駿府の中村一氏の嫡子・一忠が入ります。 この一忠は幼少のため、家老・横田内膳が藩政を動かすのですが、藩内で反感を持たれ祝宴の場で暗殺させられました。 内膳の子・主馬之助は父の無念を晴らすため三ノ丸に立て籠もると、一忠は富田城の堀尾吉晴に援助を求めて、最後には主馬之助は自刃するのです。 のち中村一忠は狩で梅を食べたのが原因で急死、中村家は断絶、伯耆は三分され美濃の黒野城主・加藤貞泰が米子城、美濃今尾から市橋長勝が八橋城、伊勢亀山から関一政が黒坂城へ入ります。 加藤貞泰は大阪冬の陣・夏の陣で功績をあげ伊予国へ、替わって姫路城から池田光政が因幡・伯耆の領主として鳥取城に入り、池田由之が米子城を守りました。 寛永九年(1632)、池田光政は岡山城へ、池田光仲が鳥取城に移り、米子城には荒尾成利が入り明治維新まで続くのです。 『参考文献を参照』 |
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