貽範碑(いはんひ)

京都府京都市上京区京都御苑

京都府の幕末史跡1
  
伏見宮邦家親王の第4王子・久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)は、安政5年(1858年)の 日米修好通商条約の勅許に反対し、徳川将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことから、安政6年(1857年)の安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられます。

万延元年(1860)、桜田門外の変で赦免され、国事御用掛として朝政に参画し、中川宮を名乗ります。
  

中川宮は、会津藩や薩摩藩と手を結び、長州藩を排除しようとし、元治元年(1864)、池田屋騒動が起こった年には中川宮から賀陽宮(かやのみや)に改め、京都御所の旧恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、宮家の列に加わるのです。

『Wikipediaを参照』