高瀬川を歩く

京都府の幕末史跡2
 
京都駅から東、高瀬川を北へ歩くと幕末の跡がある。
  
まずは 土佐藩邸跡
土佐は武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍したんだ。
  

彦根藩邸跡
彦根の井伊家は幕府に参与していました。

「彦根藩邸跡」は直接幕末と関係ないかな。

安政5年に大老になった13代・井伊直弼は日米修好通商条約などに調印します。

尊王攘夷派を押さえるため安政の大獄をおこし、逆に桜田門外の変で暗殺されるんだね。  

佐久間象山先生と大村益次郎郷遭難の碑
ここより北へ一丁に遭難の碑があります。

佐久間象山先生と大村益次郎郷遭難の碑があります。

象山は信州松代藩士で、洋楽・砲術を学び、開国論を唱え、勝海舟や坂本龍馬、吉田松陰ら多くの俊才を教育します。

益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者になりました。
   
佐久間象山先生遭難之碑
佐久間象山遭難の碑です。

池田屋事件の直後、いきりたっていた攘夷派は、学者象山の説を受け付けなかったと云われています。

元治元年(1864)7月11日、木屋町通を馬に乗って通りかかった象山は、刺客に襲われ斬られて絶命するのです。
  

大村益次郎卿遭難之碑
大村益次郎遭難の碑です。

長州藩の軍事指導者として、戊辰戦争の指揮に活躍します。

明治2年(1869)9月4日、廃刀論で士族の反感を買い、木屋町通の東側にあった宿所で刺客に斬られ、その傷がもとで、同年11月5日大阪の病院で没します。
  

吉村寅太郎寓居跡
吉村寅太郎は土佐の人、武市半平太の教えを受けて勤王党に加わります。

のち土佐を抜け出し、尊王攘夷運動の中心の一人として活躍、各藩の志士を集めて討幕軍を組織したんだ。

天誅組を起こして、大和五条の幕府の官所を占領したのですが、討伐により27歳で戦死します。
  

武市半平太寓居跡
武市半平太と呼ばれ、土佐の志士で坂本龍馬とは遠縁になる人だよ。

黒船が来た時、土佐勤王党を結成し尊王攘夷運動の中心になった。

会津藩と薩摩藩により、長州藩が失脚すると、勤王派は衰退し代わって公武合体派が主導権を握ります。

武市も土佐前藩主・山内容堂により投獄され、獄中で切腹を命じられるんだね。  
  

佐久間象山寓居跡
佐久間象山は信濃松代藩の出身、23歳で江戸に出て朱子学を学び「象山書院」を開きます。

象山の塾から勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬・橋本佐内・河井継之助など多くの幕末維新に名を残した人物がいたんだ。

生徒もすごいけど、先生はもっとすごいね。
  

高瀬川一之船入
加賀藩邸跡を過ぎ、大村益次郎の遺跡を過ぎる。

ここは高瀬川一之船入という場所、川の西方の堀割を一之船入というらしい。

高瀬川は慶長十六年頃に、角倉了以という人が運河を開いたらしい。

大阪まで運んでいたんだ。
  

桂小五郎像
長州屋敷跡の桂小五郎。

明治維新を成し遂げ近代日本の礎を築きます。

その桂小五郎は長州藩士、吉田松陰の門下生なんだ。
  

坂本龍馬寓居之跡
もちろん坂本龍馬。

ここまで来ると、多くは語る必要はないよね。
  

先斗町界隈
夜になるとネオンが灯る、どこからともなく人が集まる。

幕末の志士たち、将来の日本を語りながら、お酒飲み、大笑いしていたんかな。