伊藤博文 別邸

山口県萩市椿東1515-1

山口県の幕末史跡
 
別邸は、明治40年(1907)に東京都品川区に建てた屋敷のうち、その面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築したものです。

文久3年(1863)、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らとともにイギリスへ渡航、日本との国力の差を目のあたりにし開国論に転じました。

元治元年(1864)、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国、戦争回避に奔走するも下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は破壊されました。

同じ年、京都では蛤御門の変、元治の変と呼ばれる禁門の変が起こり、長州藩が会津藩を排除しようと挙兵、長州は敗れ「朝敵」となりました。

江戸幕府は禁門の変を起こした長州を処分するための第一次長州征伐で、長州藩は幕府に従う姿勢を見せました。(俗論派)

対して正義派(革新派)と称した高杉晋作らは、下関市長府の功山寺にて挙兵、伊藤博文は力士隊を率いて、高杉のもとに一番に駆けつけるのです。

『Wikipediaを参照』