金子重輔君 絶命之処

山口県萩市今古萩町

山口県の幕末史跡
 
金子重輔(かねこしげのすけ)は、文政13年(1831)、長門国の商人・茂左衛門の長男として生まれ、のち足軽の金子家の養子となりました。

幼少期は白井小助に学び、のち土屋蕭海(つちや しょうかい)に学びます。

嘉永6年(1853)、江戸に出て長州藩邸の雑役となり、熊本藩士永島三平の紹介で吉田松陰と出会い弟子となりました。
  
安政元年(1854)、アメリカの東インド艦隊が再来日し、日米和親条約が締結されると、松陰と共に下田のアメリカ艦に乗り込もうとしましたが、拒否され計画を中止し自首します。

伝馬町牢屋敷に収容後、萩へ移され、安政2年(1855)、岩倉獄で病死するのです。 享年24歳。

『Wikipedia参照』