松陰神社

山口県萩市椿東1537

山口県の幕末史跡
 
文政13年8月4日(1830)、長州藩士・杉百合之助(ゆりのすけ)の次男として松陰は生まれ、山鹿流兵学師範の叔父・吉田大助の養子となりました。

天保6年(1835)、叔父・玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受け、9歳で明倫館の兵学師範に就きました。

嘉永3年(1850)、平戸藩の葉山佐内より西洋兵学の影響を受け、のち江戸に出て、砲学者の豊島権平や佐久間象山から西洋兵学を学びます。

嘉永5年(1852)、宮部鼎蔵らと東北への旅を計画し、通行手形の発行が遅かったため、脱藩して出かけ、江戸に帰着後に罪に問われて、士籍剥奪・世禄没収の処分を受けました。

嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航した時、佐久間象山と観察し、翌年のペリー再航時には、乗船したものの渡航を拒否され、伝馬町牢屋敷に投獄、のち長州の野山獄に幽囚されました。

安政2年(1855)、出獄を許され、杉家に幽閉、安政4年には松下村塾を開塾します。

松下村塾では高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らを教育し、安政5年(1858)には幕府が日米修好通商条約を結んだことに反対し、倒幕を持ち掛け再度野山獄に幽閉されます。

安政6年(1859)、安政の大獄で江戸伝馬町牢屋敷に移され、死刑を宣告され、11月21日に牢屋敷にて執行されるのです。

享年29歳。

現在、東京世田谷区と山口県萩市に、吉田松陰と門下生を祭神とする松陰神社が祭られているのです。

『Wikipediaを参照』