加西市
播磨国風土記ゆかりの地

 
ここは加西市、応神天皇の頃、一つがいの鴨が飛んできて巣をつくり、卵を生みました。

鴨から「賀毛の郡」になったんだね。 今回は賀毛郡に含まれる、ゆかりの地を探してみるよ。

1.修布里(すふのさと) 修布の井戸
  吸谷町359
修布里の地名由来は、この地にある井戸に水を汲みに来た女性が、井戸に吸い込まれ、「すふ井」が「修布里」になったと云われています。

また鴨里の伝承に登場する二羽の鴨は、この修布井の脇に生えた木に止まっていたそうです。

写真の案内板の左に井戸があり、こんこんと水が湧き出て、この土地の水の恵みを感じ取ることができるのです。

    
2.賀毛郡と針間鴨国 
  北条町栗田7 
国郡里制が導入され「播磨国」ができたのは、大宝律令(701年)の制定からで、それ以前は「明石国造」「針間国造」「針間鴨国造」という3地域の国造(地域有力者)がいて、播磨地域が3つの国だったと考えられます。

播磨国の立国とともに、針間鴨国の一部が国の名前を継承し、賀毛郡になったと云われています。 

  
3.雲潤里(うるみのさと)
  田谷町1263  八王子会館前
雲潤里(うるみ)は、飽きたという意味の「倦んだ」からきていると言われています。

丹津日子神(につひこ)が法太川の流れを雲潤の方へ別けようと、雲潤の太水の神(おおみず)の神に持ちかけたところ、鹿や猪の血で耕作するので川の水は不要と断ります。

これを聞いた丹津日子神が「川を掘るのに倦んで、こう言ったいるだけ」と述べ、この「倦み」が「雲潤」になったそうです。

  
4.河内里(こうちのさと) 
  河内町1449  普光寺 
河内里に住吉大神がやってきて、大神が村で食事をとろうとすると、従神たちが村人が刈り集めた草を散らし、大神の敷物にしてしまいます。

この草は苗代を作るために集めたもので、困った草主は大神にその旨を訴えました。 すると大神は「汝の田は草を敷かなくても苗は生育する」と言いました。

このことは大神が新しい農業技術を持ち込んだと考えられています。 

  
5.粳岡(ぬかおか) 
  網引町1399-60 播磨中央自転車道 
 
楢原里(ならはら)の粳岡は、「大汝命(おおなむちのみこと)が下鴨里で米をつかせると、粳が散り飛んできた場所なので粳岡と呼ぶ」とあります。

下鴨里の伝承では「大汝命が米を碓でついた場所を碓居谷、箕を置いた場所を箕谷、酒を祀った場所を酒屋谷と呼ぶ」と伝わり、その伝承との関連性がうかがえられます。 

  
6.鴨谷(かもだに) 
  鴨谷町1022  大歳神社
応神天皇(品太天皇:ほむたのすめらみこと)が射よと命じた矢が当たった鴨が落ちた場所を鴨谷と呼びます。

鴨谷町からは古代集落の鴨谷遺蹟が発見され、「鴨谷大塚古墳」は賀毛郡内で最大級の規模であり、対岸の殿原町には白鳳期創建の殿原廃寺があり、本古墳被葬者の一族による建立と考えられています。

  
7.煮坂(にさか)
  河内町79-13 旧道と新道の合流地 
応神天皇の従者が、修布里(すふ)で放った一本の矢が、二羽の鴨に当たり、鴨は飛んで逃げ、落ちたところを鴨谷といいます。

その鴨を羹(煮物)に調理した場所を煮坂といい、現在の西脇市との市境の二ケ坂と考えられています。

鴨を郡境まで運び煮る行為は、境界を明確化する祭祀と考えられています。 

  
8.鹿咋山(かくいやま)
  北条町黒駒114-85 女鹿山公園 
応神天皇が修布里に狩りにやってきます。 すると山中で舌を噛んだ白鹿と遭遇したので、この山を鹿咋山と呼びます。

天皇が行った狩りは祭祀の一部で、獲物を土地の神に捧げ共食することで、土地の霊的な支配を確立します。

この狩りの最中に霊獣の白い鹿を天皇に献上し、土地の支配を認めたとも考えられています。 

     
10.玉丘(たまおか) 
  玉丘町185-1  玉丘史跡公園 
玉丘古墳のところで、「根日女伝承」として広く知られています。

二人の皇子、 意奚(おけ:24代・仁賢天皇)、袁奚(をけ:23代・顕宗天皇)の遣わした使者が、国造許麻(くにのみやっここま)のもとを訪れ、その娘・根日女への求婚を伝えます。

根日女は応じるのですが、入内は叶わないまま年老いて亡くなってしまうのです。 

  
11.玉野村(たまの) 
   玉野町1340  玉野町公会堂 
玉丘の伝承は、楢原里内にある「玉野村」の地名由来として、「玉野の村あり、その所以は・・・」の書き出しから始まります。

玉野町の広範囲で古代の集落遺跡が確認されており、玉野村が大規模集落だった可能性が高いと考えられています。

玉野町には「山伏峠石仏」、「玉野薬師堂石棺板碑」「玉野石仏」など古墳の石棺を転用した石棺仏や板碑を見ることができるらしいよ。

  
12.川合の里 
   繁昌町529  
   乎疑原神社(おぎはらじんじゃ)
川合の里の由来は「端鹿川(はしか)の尻と鴨川がこの村で会うから」とあります。

端鹿川とは、端鹿里を流れる川、つまり東条川と考えられています。

東条川の尻とは、最下流で会う(合流)する鴨川、つまり賀毛郡を流れる最大の川である加古川と考えられています。 

   
13.鴨里(かもさと) 
   上野町57  石部神社 
 鴨里は当初は一つの里でしたが、後に上鴨里・下鴨里の2つに分かれました。

応神天皇は、修布(すふ)の井の脇の木に止まった鴨を見て、「射よ」と命じた一本の矢は、二羽の鴨に当たります。

鴨が木に止まることや、一矢が二羽に当たることは、とても珍しく「奇瑞(きずい)」といえます。

こうした奇瑞は、土地の神霊がこの支配を認めたと解釈され、ここでは応神天皇による鴨里支配の正当性を示しているとも読むことができるそうです。

 『現地案内を参照、加西市HP参照』
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