泊神社

兵庫県加古川市加古川町木村
第12代・景行天皇が印南別嬢(いなみのわきいらつめ)に求婚するのですが、印南別嬢は南批都麻(なびつま)の島に身を隠してしまいます。

白い犬に南批都麻にいることを教えられた景行天皇と印南別嬢は仲良く舟で帰り、二人は加古川河口の地で睦事をしたので六継ぎの村(加古川町あたり)となり、ほどなく城宮(きのみや)に移り結婚式をあげたのが、ここ木村と云われています。

   
神代に天照大神が天岩戸にお隠れになったときに、大神の怒りを解く為に、群神事計り二つの御鏡を造ります。

のちに一つは伊勢神宮に祀られ、一つは海に流されました。

大和時代、当時はこの辺りまで海が迫っており、海に流された御鏡が海岸の檍(もち)の木のそばに流れ着いたことから、この地に檍原泊大明神(あおきはらだいみょうじん)として祀られたと云われています。
  
飛鳥時代には、聖徳太子が鶴林寺を建立の際、側近の棟梁の秦河勝が紀伊の国から自身の氏神である国懸大神(くにかかすのおおかみ)を勧請しました。

南北朝時代の歴応2年(1339)、大井三樹伊予守宰が石弾城を築き、赤松氏に従っていたのですが、山名氏により滅ぼされました。

承応2年(1653)には宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が全社殿一式を再建したのです。
  

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