秦河勝の墳墓(生島)

兵庫県赤穂市坂越

兵庫県の古代史跡
  
秦氏は百済から渡来して帰化した弓月君(ゆづきのぎみ)を祖とし、土木・養蚕(ようてん)・機織(はたおり)などの技術を発揮して、大いに栄えた古代氏族です。

その中でも秦河勝は、飛鳥時代前半(6世紀末〜7世紀半ば)に聖徳太子に仕え、山背国葛野郡太秦(京都市右京区太秦)に広隆寺を創建したことで有名です。
  

大避神社の縁起によれば、秦河勝は聖徳太子死後の皇極3年(644)9月12日に、蘇我入鹿の乱を避けて海路で坂越に漂着します。

ここで千種川の開拓を進めたのち、大化3年(647)に坂越の地で没したと云われています。

坂越湾に浮かぶ生島(いきしま)には、秦河勝の墳墓と伝わる古墳が残されています。

『現地案内を参照』