光明寺合戦

兵庫県加東市光明寺433
兵庫県の太平記史跡
 
観応2年(1351)2月4日、ここは加東市光明寺です。 この五峰山を舞台に、足利尊氏と弟直義の軍勢が戦ったのが光明寺合戦です。

直義方の石塔頼房が光明寺に陣を置き、尊氏や高師直らが攻めたてたのです。

延元元年(1336)、後醍醐天皇は尊氏に降伏します。

後醍醐天皇に仕えていた新田義貞は、尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏治の居城であったここ金ヶ崎城に入城し再起を図ります。

貞和4年(1348)、吉野焼討ちで、南朝を制圧した北朝方では、足利尊氏・直義兄弟の争いが表面化します。(観応の擾乱)

中国筋平定のため書写山に依った尊氏を討つべく、石塔頼房は五千余騎で光明寺に陣を構え、八幡(京都府)の直義に援軍を求めました。

それを知った尊氏は、援軍の来る前に打ち破ろうと一万騎を率いて光明寺を囲むのです。

   
尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣をしきました。

仁王堂や東坂で激戦が展開されましたが、いずれも寄手が敗れます。

両軍の対峙は10日におよび、城方の後詰がせまったので寄手は摂津まで軍をひきました。

のち尊氏は直義と和睦し帰京しましたが、高師直・師泰兄弟は摂津の鷲林寺で処刑されるのです。

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