三開城

兵庫県豊岡市大篠岡・木内・駄坂・香住
兵庫県の太平記史跡2 
 
豊岡市の円山大橋を東へ渡り、そのまま県道703号線を1.5kmほど東へ走ると六方川があります。

そして広がる田園の中央には標高202m三開山の山頂に三開城(みひらき)があります。

元弘三年(1333)、朝廷は南朝と北朝に分かれ、但馬でも北朝方の今川頼貞が守護になりました。

対する南朝方は新田義貞の子・義宗を三開山城に迎え、妙見山城(養父市)や進美寺山城(城崎郡)を拠点として対抗しました。

建武四年(1337)、足利直義は小俣来全に「但馬凶徒の誅伐」を命じ、この戦いで三開山城や妙見山城は落城し、新田義宗は越前の杣山城(福井県南条郡)へ敗走するのです。

   
康永三年(1344)、三開山城は再び南朝軍の手に落ちたので、足利尊氏方だった山名時氏が但馬に攻め入り、三開山城を落とし自ら但馬守護を名乗り始めました。

北朝内で足利尊氏と弟・直義が対立するようになると、直義は南朝方に付き、山名時氏も尊氏方の高師直と対立していた立場から直義の子・直冬側に付いて南朝方になるのです。

そこで尊氏側の今川頼貞は山名時氏を討つ為に但馬各地を攻撃、その主戦場となったのが三開山城なのです。

『参考文献を参照』

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