楠木正行 髻塚

奈良県吉野郡吉野町吉野山1024
奈良県の太平記史跡 
  
「埋髻の墳」

吉野如意輪寺の境内にある楠木正行の髻塚(もとどりつか)です。

後醍醐天皇の崩御後、第97代後村上天皇の正平2年(1348)、楠木正成の嫡男・正行公(まさつら)ら一族郎党百四十三人が、足利の武将・高師直との四条畷の決戦に向かいます。

   
「小楠公髻塚碑文」

途中、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、後醍醐天皇の御陵に参拝の後、髻(もとどり)を切って仏前に奉納し、過去帳に姓名を記て、本堂の扉に鏃(やじり)を以て辞世の歌を書き残しています。

この碑文は慶応元年(1865)、楠木正成の18世の子孫・津田正臣によって建立されています。

 
「至情塚」

後村上天皇より楠木正行の奥方にとの話があった弁内侍(べんないし)が、正行公討ち死にの後、その菩提を弔う為に尼僧となりその黒髪を埋めた塚です。

『現地案内を参照』

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