後醍醐天皇 船上山合戦

鳥取県東伯郡琴浦
鳥取県の太平記史跡
  
元弘3年(1333)、後醍醐天皇は隠岐より脱出、伯耆の国の名和氏は天皇を奉じてここ鳥取の船上山で挙兵するのです。

   
正中元年(1324)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕計画が発覚、六波羅探題が天皇の側近・日野資朝らを処分します。(正中の変)

元弘元年(1331)、再び討幕計画を図りますが吉田定房の密告により、京都を脱出、笠置山に籠城するも幕府軍に捕らえられました。(元弘の変)

元弘2年/正慶元年(1332)、天皇は隠岐島に流されます。

     
翌年、伯耆国の武将・名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、ここ伯耆船上山に挙兵するのです。

隠岐守護・佐々木清高は天皇を奪還するため、小鴨氏や糟屋氏とともに船上山に攻め寄せたのですが敗れてしまいます。

これに呼応して、足利尊氏が六波羅探題を攻め、その後東国で挙兵した新田義貞を鎌倉で破り、北条氏を滅亡させました。

  
  
後醍醐天皇は元弘3年(1333)、船上山合戦に勝利した後、約80日間この地に行在されて政治も執られました。

建武2年(1335)、中先代の乱の恩賞で不満を持った尊氏は、天皇方から離れて行くのです。

『現地案内、資料などを参考』

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