延慶元年(1308)、三河国高橋荘(豊田市)の地頭・中条景長が築き、中条氏代々のお城です。
景長は、金谷城を拠点に足利尊氏に味方して、三河の南朝勢力と対抗し、一時は尾張に進出するのですが、土岐氏が尾張守護に任じられると三河に戻りました。
建武二年(1335)、景長は新田義貞と戦い負傷、弟・秀長に地頭職を譲ります。 (矢作川合戦)
秀長は将軍・義詮や義満に仕え剣法中条流を師範しています。 この中条流(富田流)は佐々木小次郎にも受け継がれて、宮本武蔵と決闘するんだね。
明応二年(1493)、中条出羽守常隆は、寺部城の鈴木氏、上野城の阿部氏、八草城の那須氏と連合し、松平四代・親忠と戦っています。(井田野の戦い)
天文十八年(1549)、常隆の頃に今川義元が勢力を拡大してくると東条衆に攻められ、永禄元年(1558)には松平元康にも攻められています。
永禄四年(1561)、ついに信長に攻められて中条氏は滅亡するのです。
『参考文献を参照』
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