桜城の築城は、寛延二年(1749)、拳母藩内藤氏初代藩主・政苗(まさみつ)によって着手されました。 三重の本丸、二重の隅櫓、周囲400間(720m)の掘を巡らせた総面積三十二町(32la)の計画でした。 しかしたび重なる矢作川の大洪水により築城は残念され、新たに童子山に七州城が築かれたのです。 今日に至っては、往時の隅櫓の石垣を残すのみとなりました。 内藤氏以前の三宅氏時代の居館に、桜が植えられていたことから桜城の別称が伝えられています。 『現地案内を参照』