知立城
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愛知県知立市西町
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名鉄名古屋本線「知立駅」で降り、北側の419号線「刈谷道交差点」のすぐ北側の公園が知立城(ちりゅう)です。
2006年6月、ついに梅雨が始まる。 初めての愛知県は三河、いよいよ戦国時代の名が見えてくるよ。
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知立(ちりゅう)と読みます。
東海道五十三次の三十九番目の宿場には「池鯉鮒」と書いていました。
国道155号線を挟んで、北西300mには知立神社、そこの神主だった永見氏(ながみ)の居館です。
右横には「御前」の石碑もあるからね。 |
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知立城は、元来知立神社の神主であった永見氏の居館でありました。
永見氏の系譜を記した「永見氏家譜」には、平安時代末に後白河院の北面の武士として保元・平治の乱に従軍した十三代貞春の代にすでにその名が記され、二十九代貞英まで続いたのですが、永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで落城しました。
その後、天正年間に刈谷城主・水野忠重が信長饗応のため約三千坪(1万u)の土地を整備しました。
寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われましたが、元禄十二年(1699)の大地震により倒壊したのです。
『現地案内を参照』
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「多宝塔」
知立神社に来た、すごくりっぱな塔があり感動だよ。嘉祥三年(850)、天台宗僧円仁が神宮を創立、この多宝塔も建てました。
現在の建物は永正六年(1509)、重原城主・山岡忠左衛門が再建したもので、明治の神仏分離令の時には「知立文庫」と名を変えて取り壊しの難をのがれたそうです。
神社では行事の準備中、六月十一日に「からくり人形 一の谷合戦」が演じられる、場所は神社の洋間だよ。 |
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「神社の石橋」
享保十七年(1732)に造られた半円形に反った太鼓橋です。
この池は御手洗(みたらし)と呼ばれ、片方の目がわるい魚がいました。 その魚は娘の目の病から身代わりとして救ったと云われています。
この御手洗池は殺生をしてはいけない池で、鯉や鮒が多く、そこから「池鯉鮒」となりました。 |
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「芭蕉の句碑」
不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市
(ふだんたつ ちりふのしゅくの もめんいち)
江戸では「池付白(いけつけしろ)」と呼ばれ、好評な三河木綿の集散地としてにぎわっていました。
寛永五年(1793)、芭蕉の句が作られて百年、それを記念して池鯉鮒蕉門の俳人・井村祖風が句碑を建てています。
菖蒲ももうすぐ見ごろだよ。 |
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「池鯉鮒宿」
お城の碑の南側だよ。天正の頃、知立城には刈谷城主・水野忠重により御殿が建てられました。
寛永の頃には、松平主殿守が増築を行い、将軍家の宿泊や休憩所となっていましたが、元禄の地震により倒壊してしまうのです。
東は岡崎、西は鳴海、三河や尾張のお城、沢山行けるかな楽しみだね。 |
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