土居構とは古い城郭の形式です。 ここは約六百余年の昔、新居字摩二郡を支配した河野通直が築造したと伝えられています。
主峯高峠を中心に麓に加茂川の急流をめぐらした城塞の拠点として、偉容を誇った高外木城主の平生の居館の跡でした。
時代は移って、石川氏がこれに拠ったが、天正十三年(1585)の兵乱に建物等一切焼亡して、僅かに石垣芝生の犬走等のみ残存しています。
寛永十九年(1642)、久門政武が中野村庄屋として入居し、子孫継承して今日に至っています。
寛文のはじめ建築した家屋は、その後改造をかさねながらなお旧態を保っており、書院の庭園は江戸初期民家の代表的なものとして推奨されています。
本邸を囲む巨木老樹を含む植物群は旧時より、居住者の生活様式を類推し得る意義深いものがあります。
『現地案内を参照』
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