藤堂高虎公は慶長五年(1600)、関ケ原の合戦に東軍・家康方の先鋒として戦功をたて、伊予半国二十万三千石を与えられました。
当時、諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は、内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡辺勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として慶長七年より九年にかけて、城壁高さ六間及至八間を築きました。
本丸には五層の天守閣、その他には櫓城門等二十数棟を配し、三重の城濠をそれに海水を導入して当時としては、他に類例のない一大平城を構築したのです。
また公は、家康に信任され慶長十三年伊勢の津に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命ぜられた時、献じて亀山城に移築しました。
その後、今治城には義子・高吉が二万石で維持し、更に寛永十三年(1635)に伊勢長嶋より久松定房が入城し、後三万五泉五千石で世々十代を経て、明治維新となりました。
『現地案内を参照』
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