応永年間(1394-1428)、東伊予の諸豪族がしだいに河野氏から離反し、敵対する讃岐の細川氏に味方するようになりました。
そこで、河野通之は家臣の桑原城主・桑原通興に命じて築いたのが鷲ノ森城です。
享禄年間から天正年間(1528-92)、新居浜市の金子山城主・金子元宅と、小松町の剣山城主・黒川氏の攻撃を受けてます。
元亀二年(1571)、金子氏・黒川氏の攻撃では落城かと思われた時、毛利氏と来島城主・来島氏の援護により救われました。
天正三年(1575)、再び金子元宅と黒川通博が鷲ノ森城を攻撃、桑原通国は討死、泰国が跡を継ぐも金子氏の支配下に置かれるのです。
天正十三年(1585)、秀吉の四国征伐が始まると、小早川隆景の軍により城主以下全員が討死し、落城するのです。
『参考文献を参照』
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