朝倉氏の3代・氏景の次男正景が、15世紀の前半、一条家の荘園であった東郷庄を預けられ、東郷下総守と称して、槇山城はこの頃にを築いたと云われています。
文明3年(1471)の頃、朝倉氏が一乗谷城に本拠を移してからは、その支城の役割を担うようになりました。
尾根続きの御茸山までには、大規模な4ケ処の堀切があり、一乗谷と密接に結ばれていたことが知られています。
朝倉氏の滅亡後、柴田勝家を経て、天正12年(1584)、長谷川秀一が城主となり、東郷の地を治めます。
秀一が朝鮮(文禄の役)で陣没した後、北庄城の丹羽長秀の次男長昌が城主となり、15万石を領しました。
現在も、山の尾根には大小様々の郭が段状に数多く存在していますが、北東の郭群は朝倉氏時代の姿を残しています。
また、山頂の城台や千畳敷、二の丸などは長谷川氏の代に整備され、城台には石瓦で葺いた建物があったと推定されています。
『現地案内を参照』
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