溝江館
福井県あわら市大溝

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  北陸自動車道「金津IC」から西へ、153号線を南へ走りあわら市街に入ります。

市役所から西へ300mぐらいには、溝江館(みぞえ)がありました。

 
  道沿いで、少し北側を見ていると公民館だったかな、その傍にあるよ。

金津城の館跡には、明治の中頃まで堀があった。

近くの妙隆寺は溝江氏の菩提寺、その一族と富樫氏の墓所となっているよ。
 

 
溝江氏は、南金津出身の開発領主で、溝江河内守景逸(かげやす)と、その子大炊助長逸は朝倉義景に仕え、越前北部防衛の拠点として金津町のこの地に金津城を構え、たびたび加賀の一向一揆と戦い軍功をあげました。

天正元年(1573)、朝倉氏が信長に亡ぼされると、越前・加賀の一向一揆は勢いを盛り返し、翌年2月、その勢約2万が金津城に攻寄せました。

長逸らはよくこれを防ぎ、和議に入りますが遂に成らず、同月19日長逸は子・長澄を脱出させて城に火をかけ、一族郎党と共に自刃したのです。

長澄は信長・秀吉に仕え金津城を再興し、浜坂の検地など検地奉行として活躍しましたが、関ヶ原の戦いの後、また没落して彦根藩に仕えました。

『現地案内を参照』

 

  
  長逸は子・長澄は信長と秀吉に仕え、金津城を再興しています。

でも関ケ原で没落し彦根藩に仕えたのです。

このお堂の床下には古井戸、落城の時、一族が身を投げたと云われているよ。