中世の高浜に生きた戦国武将・逸見昌経は、佐伎治神社の裏山に砕導山城(さいちやま)を構えていました、 昌経は永禄4年(1561)、若狭国守護武田氏の内紛に乗じて叛乱を起こしましたが、同年6月越前朝倉・武田連合軍との合戦に敗れ、砕導山城は落城するのです。
巻き返しを図る昌経は、永禄8年(1565)高浜湾に突き出た小半島に高浜城を築城しました。
高浜城は、当時若狭国内の城郭が全て山城であるのに平山城であったことが注目され、また逸見氏は伝統的に水軍を軍事力の要としており、大飯町域や舞鶴市域に海城が確認されていますが、本高浜城も三方を海に囲まれた海城として機能していたものと思われます。
今も天王山では当時の野面積みの石垣や石段・曲輪を見ることができます。
高浜城は天正9年(1581)、に逸見氏が没落して、後も代々城主が代わり、寛永11年(1634)の初代小浜藩主・酒井忠勝の入部まで存続したと云われています。
平成12年(2000)10月、城域内での水道工事中に遺構の一部と思われる石材が出土し、二ノ丸、三ノ丸の境界にあった橋の基礎石である可能性が考えられます。
『現地案内を参照』
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