水 城
福岡県太宰府市水城

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  九州自動車道「太宰府IC」から3号線を南へ、水城2丁目から112号線へ入り、まもなく水城3丁目には水城(みずき)の東門がありました。

九州のお城の最初は水城だよ。 でも、また来なければいけないね。

 
  古代官道復元ラインを見てみる。

ここ東門と西門は都からの太宰府への玄関口でした。

東西それぞれの官道は、東は博多の街へ、西は博多城がある鴻臚館につながっているよ。

高台から見ると、そのスケールがもっと分かるのかな。

上るのを忘れていたね。
 

 
水城跡は、福岡平野南東部のに築かれた古代の土塁跡です。 天智天皇の二年(663)、大和朝廷は朝鮮半島の百済を復興するため軍隊を送り、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れました。

日本列島の防衛、とりわけ西海道(九州)の政治、経済、軍事を統括する役所である太宰府の防衛に迫られた状況は、古代の歴史書である「日本書紀」の翌年以降の記載に知ることができます。

現在の大野城市と太宰府市の境に山のごとく横たわって残る土塁跡こそ、「日本書紀」の記事ににある水城の大堤であることは明らかです。

全長1km、高さ10mを越える大土塁はこれまでの発掘調査や研究で、土塁下部にある木樋(木製の導水管)を通じて、土塁の内側で集めた水を土塁外側にある塀に貯えたと考えられています。

水城跡は大堤のその西方の大野城市から春日市にかけて、規模の小さな土塁跡か確認されており、小水城と呼ばれています。

大土居水城跡は、小水城のひとつで、水城大堤から西へ約3.4kmのところにあります。 平成7年から11年にかけて県道の下の発掘調査によって土塁を積み上げた固くしまった土層の跡や、小水城で初めて確認された木樋などが発見されました。

このうち、杉や楠の板を組み合わせてつくられた木樋は江戸時代に一部が抜き取られていますが、古代の土木技術の高さを知ることができます。

また、これまで大堤で確認された木樋と共通点も多く、水城大堤と小水城は古代において一連の防衛施設であったことを裏付けています。

『現地案内を参照』

 

 
  天正4年(1915)年、天正天皇即位の記念事業として、水城青年会が建てました。

太宰府に赴任する官人たちは、水城の門で出迎えを受け、また送り出されていたのです。
  
  春日市昇町にある「大土居水城跡」だよ。

規模小さな土塁跡がいくつ残っており、小水城と呼ばれている。

ここも上ると何かあったのかな、それにしても東門の高台を上らなかったのは、後悔である。

また来るしかないね、九州のお城探索へ。
   

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