木村城
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広島県竹原市新庄町
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山陽自動車道、「河内IC」で降りて、国道432号線を南へ走ります。 竹原市に入り国道2号線の「新庄交差点」を越えて1kmほど走ります。
国道には「小早川神社」のバス停、その東側の標高150m(比高130m)の山頂には木村城(きむら)があります。
2004年10月も最後、姫路からだと日帰りでは大変な距離になってきました広島県は竹原、ここには毛利元就の三男・小早川隆景がいたんだよ。
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毛利元就の三男・隆景が養子として入ったのが、この竹原小早川家のお城だよ。
3本の矢といえば毛利隆元、吉川元春、そして小早川隆景だね。
ここには小早川隆景が12歳の時に来たんだよ。 |
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沼田小早川茂平の四男、政景が正嘉2年(1258)、都宇、竹原庄の地頭職を得て入部し、この城に拠りました。
天文10年(1541)、武田氏(尼子方)の佐東銀山城(広島市祇園町武田山)を元就と共に攻めていた竹原の興景が陣中で病没しました。
興景の夫人が元就のめい(元就の兄、興元の娘)であった縁で、元就の三男隆景が天文13年(1544)竹原小早川家を相続し、木村城へ入りました。
さらに天文20年(1551)、沼田小早川家を相続して高山城(本郷町)に移りました。
城跡は標高150mの丘陵上に、本丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する曲輪のほか何段かの曲輪があり、見事な石組井戸が残っています。 北端に若宮社の跡が残っていますが、城の守護神と思われます。
室町時代の文書に 「この居城は、だれがなんといってもけっして、はずされてはならない。 月に5度ずつ大勢の人夫で築城させよ。 塀や櫓も割りあてて修理させよ」と記されています。
『現地案内を参照』
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「山の東側」
どこから登るのかな、西側の国道沿いで畑仕事をしていたおばあちゃんに尋ねてみたよ。
手を休め、東側だよと。 北側の小川沿いを歩くとここに来る。 |
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「搦め手道かな」
少し戻って、ここからも登れそう。
でも本当はもう少し先に案内板と木村城登山道の標識があるからね。 |
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「登山道」
少し登ると、道は草でふさがっていた。 ここは行ってしまえの気合で小走りに進むよ。
ゆっくりと掻き分けると、飛び上がる程の何かと出会うと思うからね。
中腹ぐらいで、本当の登山道と合流するよ。 |
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道から10mほど入った所かな、石積みがある。 ここは東側だけど、山の西側に回ればもっとあるかも。
「台風で野菜の値段が高くなった」と高速道路を走りながらラジオで聞いた。
それにしても高速道路は高いなぁ、もし無料なら日本人の生活は変わるやろね。 |
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井戸は3箇所、ここが一番はっきりと井戸と分かるね。 深さは6mぐらい、中見てみようかな、でも止めとこ。
「全ての公共施設と高速道路が無料」とラジオで聞いたら涙流して感動するやろけど、でもそんな国いっぱいあるよ。 |
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山頂の東の方、これは何かな。
何かの建物があったのかな、神社があったぐらいの大きさだけど。
そう言えば山麓のバス停は「小早川神社」となっていた。 近くをきょろきょろしたけど、神社は分からなかったよ。 |
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木村城から北側の山。
もう広島県の真ん中ぐらい、でも広島市に行くまでに100ぐらい行けそうなお城があるよ。
一挙に広島城や郡山城に行きたいし、一つづつゆっくりと西へ行きたいし、でもすでに2号線沿いの高山城を横目に見ながらここまで来てしまったけど。 |
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小早川神社のバス停に戻って、おばあちゃんにお礼。 でも逆に「花」をいただいたよ。
名前は秋桜ぐらいしか分からない、右の茶色いのは食べれるとも言ってた。 中が緑で糸を引く、切った形がレンコンに似た野菜なのかな。
花言葉というのがあるけど、花は見てるだけで、やさしい言葉以上に笑顔になるね。
早くコンビニに寄って、ペットボトルに水を入れさせてもらおう。下道でゆっくり帰るからね。 |
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