天文二十年(1551)、大内義隆が家臣・陶隆房(晴賢)に殺害され、同じく郡山城主・毛利元就も広島市の銀山城を奪い、大内氏を撃破するのです。
天文二十二年(1553)、大内義隆の姉婿である石見国津和野城主・吉見正頼が義隆の弔い合戦と称して挙兵、元就に援軍を求めてきました。
一方、陶晴賢からも元就に吉見氏討伐の出陣を迫られ、翌年、元就は陶氏との対決を決め、陶軍を迎え討つために築いたのが宮尾城です。
弘治元年(1555年)、宮尾城では、わずか三百余の軍で二万の陶軍を迎え討ち、十日間余耐え抜いて、ついに毛利軍の勝利となるのです。(厳島合戦)
『参考文献を参照』
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