因島水軍城
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広島県因島市中庄町
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瀬戸内しまなみ街道(西瀬戸自動車道)で因島に渡ります。 「因島北IC」から367号線、国道317号線を南に走ると、まもなく因島水軍城に到着します。
2004年10月、広島県尾道と愛媛県今治は10本の橋でつながっている。 因島は2つ目の橋、村上水軍の城跡につながっているんだよ。
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昭和58年に築かれたお城、二の丸は展示室、隅櫓は展望台、本丸は水軍資料館になってるよ。
水軍船や武具、村上氏ゆかりの品が展示されている、3人の武将が座っている部屋もリアルでなかなかいいよ。 |
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瀬戸内の島々と言えば、村上水軍。 これから村上氏も登場してくる、今回は少しだけ書いてみます。
平安時代、四国伊予の国では海賊が出没し治安が乱れていたので、越智氏が押領使として警備を行っていました。 この越智氏の一族である親清と子・通清は権介という職位に任命され、のち河野氏と名乗るのです。
「権介」、誰が聞いても名前だと思うけど、朝廷が任命して地方に住む役人の最上位の職名だそうです。 平安時代の律令制度では「国司」には中央貴族が任命されるのですが、実務は地元豪族の「権介」が支配していました。
歴史教科書を見ると平安時代には今だに分からない「荘園」が出てきて、その時代に各地の豪族が武装し始めたのが「武士」と書いています。 その武士団が起こした乱には「平将門」と「藤原純友」のページがありました。(承平・天慶の乱)
伊予国司であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて伊予の国府や大宰府を攻めた時、越智好方や新居郡大島を本拠地とした村上氏が討伐軍に加わっています。
養和元年(1181)、平清盛が亡くなると源氏と平家の争いは激化し、源頼朝の令旨を受けた河野通信・通清父子は瀬戸内で平家追討として功績をあげました。
河野氏から村上氏の話に戻すと、南北朝時代の村上義弘までを前期村上氏、のち信濃村上氏から迎えた師清からは後期村上氏と呼ばれています。
そして師清の孫の時、村上家は三つに分かれたのが「義顕の能島村上氏」、「顕忠の来島村上氏」、そして「顕長の因島村上氏」なのです。 これから村上氏はいっぱい登場するから、その時に書くね。
『参考文献を参照』
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ここから登るよ、と言っても観光地だから、社員旅行のネクタイ姿でも大丈夫。
写真撮影したいけど、一人じゃむずかしいね。 沢山の人がいるし、ほんとに一人なら顔出すよ、はみ出るやろね。 |
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「二形船」
室町から江戸時代にかけて瀬戸内や九州で活躍した船です。
二形は、船首の形が上は箱形で、下が水押という造りらしい。
そして16世紀からは、この船の上を矢倉で囲ったのが安宅船と呼ばれてた。
でも船で戦うのは難しいと思うよね、陸から石や空き缶を投げらそうだし。
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「村上家歴代の墓」
かつては島に分散されてたお墓、菩提寺金連寺に集めたと伝わっています。
すごい、思わず緊張で声が出なくなる。 「村上水軍」、一人一人の物語が集まっているんだ。 |
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「青影城」
真ん中の山が青影城なのかな、村上義弘が初代城主だよ。
因島にも沢山の城跡がある、一人でも海が見える探索は楽しいよ。
でもほんとうは、夕日に染まる君を見てみたいよ、いつの日か瀬戸の凪に誘われて・・。 |
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