大可島城
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広島県福山市鞆町
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山陽自動車道、「福山東IC」で降りて、福山市から県道22号線を南へ走ります。 瀬戸内海に突き出た沼隈半島の先端の丘には大可島城(たいがしま)があります。
2004年10月、ここも「鞆の津」。 この風景、最後まで描かないよ、それはまだ見ぬ西の絵が見たいからね。
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南北朝時代には独立した島で、その城跡に円福寺が建てられました。
足利直冬が居たり、村上氏が居たりして、その上に瀬戸内海の風景はバツグンだよ。 |
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康永元年(1342)、四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となりました。
この時、大可島城にこもる南朝方の守将・桑原伊賀守はじめ将兵達は全滅したのです。
正平四年(1349)、足利尊氏の弟・直義の養子直冬は、中国深題として大可島城にいたこともありました。
戦国時代には村上水軍の一族が、大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。
慶長年間(1600年頃)、鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。
『現地案内を参照』
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「桑原一族の墓」
本堂の前にあるよ。桑原氏は椋山城主(福山市服部永谷)で、元弘の頃から後醍醐天皇についた南朝の忠臣でした。
のち、石浦城主(沼隅郡山南)となり、鞆城の城代も兼ねていたのです。
この大可島の戦いで一族共に没しました。 子孫の方がこの大可島城跡の墓に残っていた墓石を集めてここに祀っているのです。 |
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「疑な うし保のはなも 浦の春」 芭蕉
くだけちる潮の花を見ると、鞆の浦にも新春のめでたさがある、この自然をつくられた神の徳を疑うな。
という意味らしい、いきなり疑うなと言われたら困るよね。 でも、これが芭蕉らしさかな、はっとするよね。
江戸時代、この円福寺で句会が開かれていたんだね。 |
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「仙酔島」
鞆城ページから見た仙酔島もきれいだけど、ここからの瀬戸内に浮かぶ島々、ほんときれいだよ。
もっと普通の写真は無いのかと聞かれそうだけど、ほんと無いよ。 |
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「対潮楼」
福禅寺の隣にある対潮楼は朝鮮通信使の迎賓館としても利用されました。
朝鮮通信使とは1607年から12回、朝鮮王国から江戸幕府に向けられた使節の人です。
ソウル・プサン・対馬・壱岐・九州・下関・上関・下蒲刈・鞆の浦を通ります。 それから牛窓・室津・明石、大坂から内陸を通って日光まで行くのです。
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「鞆ノ津の力石」
江戸時代、船の荷物を運ぶ仲仕たちが、祭礼の場で「力石」を持ち上げて競いました。
140〜200kgもあるらしい。
「太男」か、これなら姫路のお菊神社の「烈女」に対抗できるな。 (兵庫県の播磨風土記を参照) |
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「鞆港」
この街には平安・鎌倉・室町時代のお寺、南北朝時代・戦国時代のお城、江戸時代の迎賓館や明治維新の出来事があった。
そして初めての登場、「村上水軍」。 ここから西へ行くのはドキドキしてくるね。
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