鞆 城
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広島県福山市鞆町
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山陽自動車道、「福山東IC」で降りて、福山市から県道22号線を南へ走ります。 瀬戸内海に突き出た沼隈半島の先端、鞆の浦のほぼ中央の丘には鞆城(とも)があります。
2004年10月、瀬戸内に住んでいながら「瀬戸内海国立公園」を聞かれても分からない。 「鞆の浦 路を曲がれば 時代も変わる」、その風景は昔の絵を見ていたのかな。
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毛利氏が将軍・足利義昭を鞆に迎えて築いたお城です。
義昭は福山市津之郷の蔀山居館(しとみやま)に移るまでの六年間滞在し、この街は鞆幕府ともいわれていました。
今では「歴史民族資料館」が建っています。 |
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戦国時代、瀬戸内海の要所、鞆港に面して築かれた海城です。 十六世紀初頭、備後を領有した尼子氏に対抗して、鞆の浦を根拠地にしていた毛利元就が、天文年間(1532-55)に築城したと推定されています。
元亀四年(1573)、信長によって京都を追われた最後の将軍、足利義昭は鞆城に入り、城は拡充されました。 毛利氏は直轄地として、次々に鞆城代を置きました。
慶長五年(1600)、安芸備後に入封した福島正則により再築城されました。 鞆港より三の丸、二の丸、本丸に追手門から上がる梯郭式で、東は福禅寺まで、北は搦手門へと下り沼名前神社までの広大な縄張です。
元和六年(1615)の一国一城令によって取り壊されましたが、水野、阿部時代には町奉行が置かれました。
現在、郭、帯郭、土橋、枯山水、石垣、堀等の遺構が残っています。
天正年間以前の石垣は自然石を積みあげた「野面積み」、天正年間以後のは、小石をはさみ表面を揃えた「打込みハギ」、江戸初期のは切石で表面を揃えた「切込みハギ」で、毛利・福島時代の石垣で散見されます。
『現地案内を参照』
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ここは資料館からの風景、左に見えてるのがもう一つの大可島城だよ。
弓を射る時に左手につける道具のことを「鞆(とも)」と呼び、形が似てることから、この港の名が付きました。 |
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お城の周囲には、古い石垣と新しい石垣があるよ。
ここは北側の石垣、古い方だと思うのだけど。
この場所は意外と見ないで、海を見て満足して帰った人が沢山いそうな場所にあるから、来た時はうまく路を曲がってね。 |
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「山中鹿之助の首塚」
ここは毛利氏の領地、でも敵対した尼子氏家臣の塚がある。
播磨上月城で敗れた鹿之助が岡山県高梁市の「阿井の渡し」で命を奪われ、毛利輝元や足利義昭が首実検をしました。
その首実検をしたのが、ここの左にある静観寺だったんだ。
「阿井の渡し」にあるのは「胴塚」らしい、胴と首が別々の所か、少し怖いなあ。 |
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「鞆の津の商家」
上の首塚の所には、「ささやき橋」もあるよ。
応神天皇の頃、百済の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦が恋を語り合った橋、でも二人は海に沈められました。
これも怖い話だなあ。
ここは江戸時代末期の建物で、明治には漁網を造って北海道から東南アジアまで販売していたらしいよ。 |
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「坂本龍馬の宿泊跡」
慶応三年(1867)、坂本龍馬の海援隊が「いろは丸」に武器や商品を積んで長崎から上方に向いました。
ところがここ鞆港で紀州藩船明光丸と衝突し沈没するのです。
龍馬らは鞆ノ浦に上陸し、沈没をめぐって紀州藩との交渉をした時に泊まった所です。 |
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「いろは丸展示館」には、近年になって船を引き上げた時、見つかった遺品や、龍馬が宿泊した家の隠れ部屋が展示されてる。
でも、この時代の事は不得意だからもっとテレビを見なければね。
と書いているうちに路を曲がれば、もう別の時代の街並みだよ。 |
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「安国寺」
鎌倉時代に金宝寺として創建され、後の南北朝時代に足利尊氏が安国寺と改称しました。
今回はこのお寺しか行かなかったけど、「路を曲がれば、そこにはお寺」というぐらい沢山あるよ。
ここの安国寺に恵瓊がいたのかな、分からないけど、関係はありそうだね。 |
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「仙酔島(せんすいじま)」
天上を舞っていた仙人が、あまりに美しい景色に酔ってしまった島だよ。
ここは仙酔島への渡船場、赤い船に乗りたいけど先を急いでいるからね。
もっと普通の写真は無いのかと聞かれそうだけど、無いよ。 |
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もっと長く居て、沢山の歴史と風景を描きたいけど、それはもう一つのお城に任せることにする。
鞆の浦は見所が一杯あり過ぎて、時代の路をうまく曲がれないかもしれないよ。
現在社会では時代の変化にうまく曲がれないと、勝ち残れないと言われてる。
でも、いづれの時代も、絵になる風景は残っているんだよね。 |
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