青山構居
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兵庫県姫路市青山
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国道2号線で夢前川を渡り、500mほどで北に曲がると青山公民館、その北側の旧街道を西へ入ると青山構居(あおやま)があります。
2005年8月、お盆過ぎると秋の月。 街道探索シリーズは青山の街、大きな道標と沢山の史跡、音頭の舞で秋を迎えたいね。
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嘉吉の乱で播磨国は赤松氏に代わって、山名氏が支配しました。
山名宗全は戦死した一族や家臣の菩提寺として、五重の塔を建てました。
この近くに寺院があったと云われています。 |
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嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で、赤松一族は城山城で滅亡、播磨・備前・美作は山名氏が支配、この青山構居には梯屋駿河守が入りました。
赤松一族でありながら赤松満政と有馬持家は、満祐追討軍に参加、恩賞として播磨の東三郡(明石・美嚢・賀東郡)が与えられるのですが、これも山名宗全にとられました。
文安元年(1444)、城山城から脱出した則尚は、満政と協力して東播磨で兵を挙げるのですが、宗全によって敗れ、満政は京都で梟首、則尚は再び播磨・室山城に攻め入るも、山名軍に敗れて備前の鹿久居島で自害し果てるのです。
しかし城山城からは、満祐の弟・義雅とその子の千松丸も脱出していたのです。 義雅は敵陣であった満政に、子を頼んで自害しました。
満政は千松丸(のちの時勝)を禅僧天隠龍沢に依頼して、義雅夫人の実家である近江国浅井郡でかくまうのですが、まもなく世を去りました。
しかし、時勝は法師丸をもうけていたのです。
応仁元年(1467)、応仁の乱で西軍・山名宗全と東軍・細川勝元が争うと、法師丸(政則)は東軍に付きました。 東軍、すなわち将軍側に付いた結果、播磨・備前・美作は山名氏に代わって赤松政則が守護になるのです。
『参考文献を参照』
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「青山石造道標」
夢前橋を渡り北へ100m、旧街道の道標だよ。
安政二年(1855)に建立され、市内で一番大きく、五角形になっている。
長崎、出雲、四国の金毘羅まである、ここから左へ、青山の街道に入っていくよ。 |
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「稲岡神社」
街道の南側、公民館で3m幅の川向こうにある「青山史跡図」を眺める、史跡の多さにびっくりするよ。
姫路藩主・榊原政邦が詠んだ八景は、今では「青山八景」として、街の八ヶ所に歌の石碑が建てられています。
目がかすんできたので、中の図書館で1分休む。
北側の神社にきた、拝殿の「お蔭参りの絵馬」は忘れないでね。
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「青山八景 南海漂船」
神社の西側から登る、すぐに山頂だよ。
播磨風土記の14の丘を覚えているかな、その一つ、稲が落ちたところの稲牟礼の丘だね。 (稲岡山)
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「東の風景」
姫路城が見える方向だよ。
懐かしいね、右は山崎城の時の鬢櫛山、櫛箱(くしばこ)が落ちた匣丘(鬢櫛山)なんだよ。
左の2つは箕(みの)を落した秩父山と思うけど。
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「五輪塔」
一番上の写真の薬師堂の横だよ。
本当の事を書くよ、宗全寺跡(薬師堂)は探せなかった。
公民館で「青山史跡図」を見て、街道筋と思い何回も往復、でも分からなかった。
諦めて、人丸神社に行くことにしたよ。
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「人丸神社」
41代・持統天皇、42代・文武天皇に仕えた柿本人麻呂は、播磨国司として青山に住んでいました。
大和への旅先で、石見国(島根県)から妻が来る夢を見て、引き返し、この岡で妻を見たと伝わっています。
その後、妻見岡に社を建てました。
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この日は、「青山史跡盆おどり大会」
昼ごはん中、史跡保存会の方に宗全寺跡までつれていってもらったよ。
どんな「音頭」かな、来年は夜に来てみたいよね。 |
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「黒田官兵衛 古戦場跡」
永禄十二年(1569)、姫路城主・黒田職隆軍と龍野城主・赤松政秀軍が戦った所です。
この戦いで、職隆の子・官兵衛が初陣を飾りました。
簡単に見つかると思っていた、街道を西へ、2号線を西へ、南へ北へ歩いた歩いた。
分からない、人丸神社まで戻ろうかな、もっと学んでたらよかったよ。 |
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