朝倉城
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兵庫県養父市八鹿町朝倉
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播但連絡道路、「和田山IC」で降りてから312号線、そして9号線を鳥取方面へ走ります。 八鹿(ようか)バイパスの南但馬トンネルを抜け、すぐ西へカーブする「朝倉交差点」を南へ入ります。
その集落の南側には標高152m山頂に、越前朝倉氏発祥の地・朝倉城(あさくら)があります。
元亀元年(1570)、「浅井長政・朝倉義景連合軍」と「織田信長・徳川家康連合軍」は近江の姉川で戦った。 いつの日か越前一乗谷城で見る青空は、但馬の城跡を思い出させてくれるかな。
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「朝倉・宝篋印塔(ほうきょういんとう)」
宝篋印塔はお経をおさめた供養塔のことです。
「城跡探索」ではあまり戦国大名は出てこないけど、この但馬で越前朝倉氏の登場です。
福井県の一乗谷へ行く日は、この調子だと20年後になるのかな。 |
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八鹿町朝倉は福井市の一乗谷で栄えた大名、朝倉氏の発祥の地で、朝倉氏は孝徳天皇の皇子、表米親王を始まりとします。
平安時代末期に地名を苗字として朝倉氏が興り、朝倉高清を初代とし、その中から八木氏、宿南氏、奈佐氏などの多くの武将を輩出しています。
朝倉城は集落の南西の丘陵にあり、東西130m、南北110mの規模を持ち、室町期に作られた城郭を堀切や竪掘で戦国期に改修して守りを固めています。
宝篋印塔はお経をおさめた供養塔で、高さ230cmあり、塔身の月輪内には金剛界四仏の梵字をきざみ、室町期の十五世紀ごろの造立と推定されています。
トゲがなく味香りが優れている朝倉山椒の原産地であり、出石藩から将軍徳川秀忠公に献上されたほか、朝倉義景公にも献上されています。
朝倉という集落名が、様々な由緒を育みながら歴史と伝統の重みを現在に伝えているのです。
『現地案内を参照』
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「登山口」
この登山口を目指して車でやってきました。 集落の中の道はだんだんに狭くなり、もう50mほどで登山口、でもタイヤが落ちそうなので、必死でバックです。
必死で切り返していると、地元の方が通られたので、
「朝倉城はどこですか」とたずね、丁寧に歩いてここを教えていただきました。
車の所まで戻って、切り返しの続き。 |
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「登山道」
地元の方に教えていただきました、「石垣ぐらいしかないよ」と。
石垣があるのかと、登山口の「動物防止柵」をさっと抜け、快適な道をトントンと駆け上りました。 |
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「櫓台」
本丸は直径30mぐらい、真ん中が一段高くなってるよ。 櫓台なのかな。
記念撮影用看板と一緒に撮りたかったけど、手がとどかなかったので止めました。 |
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「石積み」
本丸から東側の面を一段降りたところです。
よく見ると、本丸周囲には所々石が積まれいるよ。 これだね、嬉しいよ。 |
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「堀切」
今度は西側に降りてみました。
「大桜200m先」の立て札がある所です、大きな堀切だよね。
お城は室町時代に築かれて、戦国時代に堀などで守りを固めたらしいよ。 室町時代と戦国時代の見分け方なのかな。 |
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「堀切」
もう一つ外側の堀切だよ。
「大桜200m先」のところに行きたかったけど、木や草がいっぱいになって、ここで引き返しました。
大桜はどんな桜だったのだろう、見たかった。 |
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「青空」
東の風景だよ、朝倉向山城はどこかな。
近くには比丘尼城(びくに)もあるはず、南側には山頂が平らになった城跡らしき大きな山も見えたよ。
今回の但馬は青空の朝倉城が楽しめたよ。 越前一乗谷城へ行けるのが20年後、その日も青空だったらいいのにね。
もし覚えていたら20年後にページを見てね。 ちゃんと青空の写真があると、それもまたびっくりだよね。 |
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