別所構居
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兵庫県姫路市別所町別所
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国道2号線で別所町に入ると「別所交差点」の所には別所構居(べっしょ)がありました。
今では昔を想う跡は残っていない、かすかな姿を目に浮かべては消えていきそうです。
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「別所構居の西」
この大歳神社は別所構の西端ぐらいかな。
大歳神社の南側から「実際院」へと溝が流れていたらしいよ。
今でも、この辺りは「福居(ふくい)」と言われ、福居構居ともいうよ。 |
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この別所町から南東へ行くと高砂市北浜町に大塩右馬允が居城した「北脇構居」があります。 (下の写真の山の向こうぐらい)
天正の頃、秀吉の三木城攻めの時、「別所構居」の大塩半左衛門と「北脇構居」の大塩次郎左衛門と子・小六範弘は別所長治の三木城に籠もり討死をしました。
つまり「別所構居」の大塩氏は三木城主・別所氏の家臣で共に落ちたのです。
『参考文献を参照』
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「実際院」
この交差点の北にはJAが、その奥の山裾に「日吉神社」があります。
今では日吉神社の前に別所幼稚園があるのですが、30年前はこのJAの場所に古墳の丘があり、その上に幼稚園がありました。
年頃の先生が、ブランコに乗って涙を流していたのを、みんなで励ました事を覚えているよ。 今では先生もおばあちゃんだと思うけど・・。 |
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「弁慶地蔵」
北側の街道筋にあるよ、大歳神社の北ぐらいかな。
弁慶の母は、福居村(別所)の生まれたそうです。
書写山に預けられた弁慶が京から帰る時、福居村の庄屋の娘・玉苗と一夜を共にしたのが、この地蔵堂であると伝わっています。 |
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「六騎塚」
街道を東へ歩く、1kmぐらいかな。
足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守・範長が迎え撃つのですが、戦いに敗れました。
西から逃げ帰り、最後は主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したといわれているよ。
その児島高徳の父・範長主従六人の自害を弔って建立されてと伝えられています。 |
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「大平山の旗振り信号所(おおひらやま)」
六騎塚から北へ、真禅寺のところから見ている山だよ。
明治から大正にかけて、大阪の堂島や兵庫の米相場を姫路に手旗信号で伝えました。
堂島-尼崎-御影山-一の谷-魚住金ケ崎山-北宿大平山-姫路と伝えたんだよ。 すごい距離だね、よく見えたんだね。 |
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