別名城
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兵庫県赤穂郡上郡町別名
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相生駅の西、国道373号線を北上し、春の千種川沿いを走り、上郡橋を渡ってから5号線を西へ、4kmほどで「船坂郵便局」の三叉路を南へ入ります。
「永代橋」を渡るとすぐ南には標高210mの山頂に別名城(べつみょう)があります。
2004年4月、春になりました。 桜に浮かぶ白鷺城は人を待ち、千種の城跡に咲く花は逢いたい人を待っているのです。
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4月、最初の日曜日は朝から雨です。 「桜」に逢いたくて逢いたくて、やってきました。
岡山の鶴首城では山頂を間違え、本屋で上郡の山地図を求め、しっかりと別名城にマークです。 |
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この別名城の北には安室川、その流れは千種川へとつながります。 千種川の北には赤松氏の駒山城、苔縄城や白旗城、そして佐用郡の上月城へとつながります。
天正の頃、天下統一を目指す信長、対する毛利輝元、その中間に位置する播磨は騒然となりました。
天正五年(1577)、信長の命により秀吉が播磨へ入ると、当時姫路城主の黒田官兵衛は姫路城を秀吉に明け渡し、三木城の別所氏や赤松一族に対して秀吉に付くよう説得しました。
しかし上月城の赤松政範は、備前の宇喜多直家を通じて毛利氏と結んでいたため、秀吉は森源蔵と山中鹿之介を使者として上月城へ送り、信長に付くように説得したのですが、政範は籠城を決め守りを固めたのです。
秀吉は一万の大軍で上月城を攻め、この別名城にも秀吉勢が布陣したといわれています。 そして上月城は秀吉の手中となり、山中鹿之介に守らせていました。
天正六年(1578)、今度は毛利の軍勢が上月城を攻撃、秀吉は救援に向かうのですが時すでに遅く、信長は三木城の攻撃を優先させる命を下しました。
秀吉は「上月城の見殺し」を決断し、この千種川から撤退していくのです。
『参考文献を参照』
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公民館に「史跡案内」があったので位置を確認です。
「うっ」違う、マークしたのは赤色の山、青色が正解だよ。
山頂を間違えるのは許されるけど、山を間違えたら悲し過ぎるよね。
近くにもお城があったよ、黄色は「大聖寺山城」で緑は「別所城」だよ。 山城は案内があると本当に気持ちが安らぐよね。
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「須賀神社」
山麓の神社です、狛犬に感動しました。 始めて見たけど、逆さになっている狛犬は沢山あるのかな。
この神社の右側を少し降りた所から登りました。 |
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「登山道」
ほぼ直線で登ります。 これが急で、出石の有子山城を思い出したよ。 枝を避けながら腰を曲げて登るのは本当にしんどい。
帰りは座って落ち葉ですべりながら降りた、やっぱりコケた。 おしりが痛いよ。 |
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「本丸」
何回か休憩でやっと着きました、周囲はしっかりと削られていたよ。
この勾配、すべり易い土、木に必死につかまりながら最後の登り。
山頂は18m×24mの平らなところ、本丸だと思うんだけど。 |
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「本丸から」
周囲を見渡し、ここより高い山頂はなさそう。 ここが本丸だと確信したよ。
見えてる山が最初にマークした山かな。 もし案内板が無かったら、あちらから、こちらを見ていたんだよね。
涙すら出ないページになるところだったよ。 |
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「曲輪の周囲」
本丸から西南へは六段の曲輪があるよ。 総長160mでしっかりと各段が残っている。
これは曲輪から一段下がった道、曲輪の両側には道があったんだよね。 |
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石が土から表面に出ていたよ。
本当にわずかだけど、やっぱりここは城跡なんだよね。 |
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あった、麓に一本。
毎年、春は名所で「きれい」と言っては人を見て騒いでいた。 今年の春ほど、こんなに桜に逢いたいと思ったことはなかった。
けっして名所ではないけれど、今年も暑い季節に向かっていくよ。
「がんばろう」かな、桜。 |
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