茶臼山城
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兵庫県赤穂市坂越宝珠山
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相生港から250号線を赤穂方面(西)へ走ります。 「坂越橋東交差点」を東へ、トンネルを越えたら北には坂越の街があります。
街の北側の標高130m宝珠山の山頂には茶臼山城(ちゃうすやま)があります。
2005年3月、今日も雪舞う播磨の坂越。 海は青くて静か、山名宗全のお城には生きてる頃の答えが沢山あるんだよ。
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久しぶり、赤穂といえば赤穂城、ここは坂越。
この公園も山名宗全が築いた坂越浦城だよ。
少し入ると児島高徳のお墓もあるよ。 |
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嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱で山名宗全は但馬から生野を越え、宗全は播磨に入ると、この茶臼山城にしばらく居城しました。
赤松一族は城山城で一族滅亡、しかし教康・則繁・則尚らは城山城から脱出しているのです。
康正元年(1455)、教康と則尚は播磨に討ち入り、茶臼山城の山名軍を攻めたのですが敗れてしまうのです。
則直城主であった則尚は備前国の鹿久居島で自害、教康は内縁関係である伊勢の北畠顕雅を頼り、多気の里の草庵に身を隠していたのですが、幕府が知るところとなり丹生俣の薬師堂で妻子・家臣六十六名は自害、のち十三名が京都六条河原にかけられました。
赤松教康、十九年の一生だったのです。
『参考文献を参照』
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「宝珠山妙見寺」
天平勝宝(749〜757)、行基(ぎょうき)によって創建され、のち空海によって再興されたお寺です。
車は下に置いてきたけど、なんとか上まで登れるみたいよ。 でも海を見ながら歩く方がきっといいよ。
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「奥の院」
妙見寺から少し登ると、道沿いから入った所には石積みある、お寺の跡なのかな。
まもなく奥の院、これは入り口の五輪塔、いつの時代で誰の人生を祀っているのかな。 |
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「和田備後守範長公一族の墓」
後醍醐天皇と敵対した足利尊氏は九州から東上してきます。
天皇方の備前熊山城主・児島高徳の義父である和田範長は脇屋義助勢と合流するために坂越に着きました。
熊山城で傷を負った高徳を妙見寺の僧に託し、八十三騎で赤松円心と戦い、しかし追い詰められ、阿弥陀が宿の辻堂で一族五名自害するのです。 (これは姫路市別所町の六騎塚との説あり) |
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赤松方の宇野重氏は大日寺で葬礼し、遺骨を郷里へ送り届けたそうです。(高砂の大日山構居を見てね)
昭和55年、この地で五基の五輪塔を発掘、これらは岡山の施主家のご芳志により奉納された新しい五輪塔です。
左から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。
なるほど、皆んな「範」がつけられているよ。 |
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「生島」 雪が舞っている坂越の海もきれい、この島には聖徳太子四天王の一人・秦河勝のお墓があるよ。
今回はお墓が沢山あった、探索始めた頃は走って通りすぎてたよ。 昔の人物は文献とかで読んで知るけど、実際にこの地に立つと、出来事より一生として見えるね。
毎日、一生懸命働く、でも本当に生きてる何かを残せるのだろうか。
それはお墓を見ている段階では、答えを書くことができない宿題なんだね。 |
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