大覚寺城
兵庫県尼崎市寺町

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  阪神尼崎駅を南に越えると尼崎城、街の西には寺町がある、その一つのお寺が大覚寺城(だいかくじ)と云われています。

2006年7月、「つづくシリーズ」は京都まで歩く。

「つづくシリーズ」の2回目
猪名寺砦久々知城 ⇒ 大覚寺城 ⇒ 大物城

 
  JR尼崎駅の南と思って南に歩く、でも阪神尼崎駅だったよ。

寺町の真ん中あたり、奈良唐招提寺の末寺です。

南北朝時代には、南朝を攻めるために二代将軍・足利義詮が大覚寺に陣を構えています。

お寺が並ぶ通り、「たこ焼き」も美味しそうだよ。
 

 
「応仁の乱」で東軍の大将であった細川勝元の子・政元は、澄之・澄元・高国の三人の養子を迎えた事から、細川家の争いが始まります。 その高国の最後。

享禄三年(1530)、高国は晴元方の富松城や大物城を落城させたのですが、天王寺・木津・今宮の合戦で大敗し、高国方の浦上村宗など多くの部将が討死しました。

そして尼崎城のすぐ東の大物まで落ち延びた高国は、紺屋に隠れていたところ三好山城守に捕らえられ、広徳寺で自害するのです。「大物くづれ」

天正六年(1578)、荒木村重は信長に対して謀反を起こし、伊丹有岡城で籠城していたのですが、頼みの毛利氏からの援護が来ないので妻と子そして多くの家臣を残して、城を脱け尼崎城へ入ります。

城主がいない有岡城は落城、尼崎城へは池田輝政が入り、その後、建部政長が尼崎藩主となりました。

元和三年(1617)、戸田氏鉄が尼崎に入ると、旧尼崎城を取り壊し、新しいお城を築き城下町の整備を行いました。

そして沢山のお寺を移したのが、現在の寺町なのです。

『参考文献を参照』

 

  
大覚寺 弁才天縁起
 

「大覚寺 弁才天縁起」

琵琶法師・覚一検校(かくいちけんぎょう)は琵琶法師の巨匠です。

応安四年(1371)、覚一検校が世を去る直前、覚一本を作りあげ、弟子・定一が書写し、また弟子・慶一が足利義満に献上しました。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

現在、教科書などに載る平家物語は覚一本がお手本らしいよ。

  
太閤秀吉ゆかりの寺
  「太閤秀吉ゆかりの寺」 広徳寺です。

天正十年(1582)、本能寺の変の時、秀吉は中国地方から大急ぎで帰ります。

急ぎ過ぎた秀吉は、明智勢に襲われ、秀吉が逃げ込んだのが当時大物にあった広徳寺。

囲まれた秀吉は、急いで髪をそり落とし、僧に化け台所で味噌をすり助かりました。 すり鉢とすりこ木が広徳寺に残っています。

細川高国が自害したのは、このお寺なのかな。
  

  
佐々成政の墓
  「佐々成政の墓」

法園寺です、天正十六年(1588) 、秀吉から九州での一揆失策の責任を取らされて切腹させられたお寺だね。

佐々成政、初めて登場する人物、常に秀吉に対抗した、すごい人だったと聞く。

青春キップで、北陸富山まで「さらさら」と行ってみようかな。
 

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