古宮砲台場
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兵庫県加古郡播磨町古宮
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第二神姫「明石西IC」を降りて、208号線を南へ、250号線明姫幹線を越え、浜国「南二見人口島入口」で西へ曲がります。
次の望海公園北交差点を南に曲がり、突き当たると公園には古宮砲台場(ふるみやほうだいば)がありました。
2009年9月、東播磨。 兵庫にはまだまだ砲台はあるんだね。
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播磨まだまだお城や砲台があるんだね。
砲台の跡は分からないけど、ここは望海公園。
野球をしている人、散歩の人、ここは砲台だよ、と言いたくなるよ。 |
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十八世紀の末ごろから、鎖国状態の日本に対し通商を求めるロシアやアメリカ合衆国など欧米諸国の異国船の出現が頻繁になり、幕末の世論が「攘夷か開国か」で沸騰するなか、幕府は海岸に大砲を備えるなどして防衛を厳重にし、文政八年(1825)には外国船打払令を出して、あくまでも鎖国を守ろうとします。
そこで姫路藩も幕府の命により、嘉永三年(1850)、家島、室津に砲台を築き、さらに文久三年(1863)には飾磨、福泊(的形)、高砂、古宮に砲台場を築きました。
この砲台場跡は、姫路藩の東端に位置し、大阪湾を経て姫路領沿海に近づこうとする異国船を発見すれば、大砲で威嚇する一方、姫路城に急を知らせるために設置されたもので、三門の大砲を備え、藩士によりこれを守らせていたと伝えられています。
しかし、この砲台に異国船が近づいて、砲撃したという記録はないが、安政元年(1854)九月十五日にロシアの使節ブチャーチンが天保山沖(大阪湾)に現れ、十月三日に下田港へ向けて出航したが、その間の九月二十二日に代官中村五右衛門が兵を率いて当地で警備にあたった記録が残されています。
ここは、地方の人たちから砲台場が変化したのか「オダイバ」と呼ばれていました。
『現地案内を参照』
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安政元年(1854)、ロシアの使節ブチャーチンが天保山沖(大阪湾)に現れ、下田港に向けて出航した時、代官・中村五右衛門が兵を率いて当地で警備にあたったそうだよ。
汗かいた後の自動販売機、これが美味しい。
ジュース飲みながらでもいい、案内を見て、と思いながら静かに去るしかないかな。 |
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