萩原城
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兵庫県神戸市北区淡河町萩原
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山陽自動車道「三木東IC」から38号線を東へ走ります。 神戸市北区に入り淡河城を過ぎて1.3kmほどで「萩原停留所」があります。
南の橋を渡って50mぐらいで「大歳神社」、その辺りが萩原城(はぎわら)です。
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お城の北側には淡河川が流れています。
西には淡河城、その西は志染川と名を変え三木城へと水は続きます。
3回、来たよ。 1回目は夕暮れ近い神社だったよ。 |
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赤松円心の孫・義祐が有馬氏を名乗り、庶流家である重則(月公)が満田城(三木市)に移り、そこで細川澄元の娘との間に生まれたのが有馬法印則頼です。
この細川澄元は細川政元の養子となった三人(澄之・澄元・高国)の一人です。 またまた話がややこしくなるのですが、澄元には晴元という子がいました。
澄元が亡くなると、晴元は三好元長の援助により高国を大物城(尼崎市)で討つと、元長の子・長慶を越水城(西宮市)に置いて摂津の守備を任せています。
天文十五年(1546)、河内の畠山氏は高国の養子・氏綱を擁立すると、晴元から離れた長慶も氏綱に味方し、晴元を近江に追放すると次第に畿内で勢力を拡大していくのです。
その少し前の天文八年(1539)、播磨の置塩城では赤松政則から四代後・政村(晴政)が家臣・浦上村宗に追われて淡路へ逃れ、のち三木城の別所氏に迎えられました。
しかし、山陰の尼子氏が播磨に攻め入ると、別所就治が尼子氏と結ぶ気配がしたので、政村は三好長慶を頼り和泉へ逃れています。
天文二十三年(1554)、有馬重則は三好長慶に従い三木城を攻め、別所就治が守る三木城はよく防戦したものの、出城七カ所の一つ萩原城は落城し、城主・淡河氏は敗走し代わって重則が入りました。
天正六年(1578)、三木城主・別所長治が信長に叛いた時、有馬則頼は黒田官兵衛や別所重棟らと共に秀吉に従い、三木城を攻めるのです。
天正七年(1579)、有馬則頼は羽柴秀長に属し、浅野長政や杉原家次らと共に淡河城を囲むと、城主・淡河定範は城に火を放ち兵350人と共に三木城に入りました。 秀吉は則頼に淡河城を与えると、萩原城から淡河城へと移るのです。
『参考文献を参照』
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「西の砦かな」
神社の前の道を少し南へ歩くよ。
いかにも城跡だよね、段々は畑になっている、段々もよく見たら石積みが見られるけど、お城の石かな。
道沿いには古い五輪塔やお墓が寄せ集められ祀られています。
2回目はこれで帰るよ。
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「湯舟川」
神社の南側の細い道を歩く、淡河川とつながる小さな川の橋。
少し東へ歩いてみる、右側は岸壁に近い小山だよ。
と言っているのは3回目。 |
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「西の丸」
岸壁を登るのは無理だから、東側の自動車でも通れる道を少し登ると広い田んぼ。
この辺りかな西の丸は、向こうのあぜ道から林の中を少し見て、今度は道の反対側へ歩いてみる。
歩いているのは元の自動車道。 |
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「二の丸」
何故なんだろう、いつもなら、林の中に入ろうか、どうしようかと迷う。
迷わないんだよ、何かを探そうともしないんだよ。
本丸はこの写真の右側にあった林。
3回来て、沢山撮ったつもりの写真。 でも本丸の木一つさえも写そうとしていないんだよ、不思議だね。
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