林田藩陣屋
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兵庫県姫路市林田町林田字聖岡
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国道29号線を北上し、山陽自動車道の姫路西ICを越えて、約7km林田交差点を西に入ると、
林田川がそばを流れ、橋を渡ると古い歴史のある林田藩陣屋の街に入ります。
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館跡にある梅林。
藩主建部家一万石の館があったところで、聖岡ともいいます。石垣や濠がわずかに残っています。 |
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室町時代の後期、谷沢国氏(くにうじ)がこの丘に築城し、 窪山城(くぼやま)と称したのが始まりであるが、永正十三年(1516)、赤松政村に背いて落城します。
藩祖・建部政長は慶長十五年(1610)、八歳で亡父の跡を継ぎ、大阪の陣では徳川方に属し、摂津国尼崎城を固守しました。
その功により、政長は元和元年(1615)七月、摂津国川辺郡(兵庫県)、西城部(大阪府)の内で一万石の所領を与えられ大名に取り立てられます。
元和三年(1617)九月、播磨国揖東郡林田に一万石で入封し、窪山城の跡を聖岡と改め、ここに陣屋を構え、灌漑用に鴨池をつくるなど農業に尽力し、以来、藩主の交代なく廃藩置県まで十代250年余り建部氏が治めました。
三代「政宇」は伏見奉行にもなり、京都の大火で禁裏が炎上したときは造営にも当たり、世徳四年(1714)には寺社奉行にも昇進しています。
七代「政賢」は学問を好み、林田藩校敬業館を創設しました。
九代「政和」は幕府の大番頭として京都二条城守護の重責につき、敬業館の振興のために河野鉄兜(てつとう)を迎えます。
歴代藩主の墓は、京都紫野の大徳寺内芳春院にまとめられて祀られています。
建部家は外様大名であったが、姫路藩・岡山藩との縁故もあり、郡北に雄視していたのです。
『現地案内を参照』
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林田藩校敬業館です。少し、足を伸ばせば祝田神社(はふりだ)、河野鉄兜の墓碑などもあり、古い町並みが残っています。
見所
「芭蕉の俳句」
「三木家住宅」
「塩阜浸水(しおおかしんすい)」
「祝田神社(はふりた)の石燈ろう」
「済水寺の五輪塔」
「西池の碑」
「八幡神社の石燈ろう」 |
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