比延山城
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兵庫県西脇市日延町字城山
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国道372号線を社町で175号線を北上し、西脇市内を超えたあたりをJR加古川線比日駅方面に曲がります。 約1km行くと城山公園の大きな標識があるので、その公園の駐車場を利用しました。 公園グランドの南端が標高289m、比延山(ひえやま)城跡への登山口になっています。
ここは丹波篠山への交通の要衝でもあり、西脇一帯が一望できる絶好の場所なのです。
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参考文献では無くなってしまったと書かれていますが、また設置されていました。
北郭と南郭の間には堀切があります。
北郭は延長80mで南北朝時代に築城され、南郭は90mで室町時代に整備されたとみられています。
二つの時代の遺構がそのままの形で残されているのは、珍しいそうです。 |
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ほぼ独立した急峻な山である比延山(標高289m、比高220m)の山頂に延長180mにわたって曲輪が築かれています。
大きく北郭群と南郭群に分けられ、両者とも階段状に小さな曲輪を連ねている点が共通していますが、細かく観察すると、北郭群は曲輪の削平が不十分で曲輪の斜面(切岸)も緩やかであるのに対し、南郭群はそれぞれの曲輪がはっきりし、曲輪間をつなぐ通路も設けられています。
以上の点から、北郭群は南北朝時代に築城されたまま残され、南郭群は室町時代に改修されたことがうかがえるのです。
このころの山城は合戦の時にこもるための城で、普段は見張り番がいるだけでした。 そのため建物も粗末な小屋程度しかなかったようです。
比延山城の城主は本郷氏です。 本郷氏は南北朝時代に当地に配置された赤松一族で、初代は本郷直頼といい、頼兼、頼木と続きますが、嘉吉の乱(1441)で没落し、復興後も比延山城には帰らなかったと伝えられています。
この本郷氏の歴史は比延山城の現状とも一致しています。 つまり、北郭群は直頼が築城したままのものが残り、南郭群は嘉吉の乱ごろの改修にかかるものと考えられるのです。
このように比延山城は、城史と城郭の年代観が一致する貴重な例です。
なお、秀吉から炭の礼状をもらった比延氏は野村町の野村構居城主・上原氏の被官人で、戦国時代に京都から比延に来た一族ですが、比延氏が比延山城を使用した痕跡や記録はないそうでです。
『現地案内を参照』
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「登山道」
標高は、そんなに高くないのに、途中からはロープを持たないと登れないぐらいの急斜面があります。
帰りにデジカメを落として、見えなくなるまで転がっていきました。 壊れていなくて、ほっとしました。 |
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「景色」
高くないと思ったけど、こんなに高かったよ。
なんでこんな所にお住まいを作ったのか、毎日ロープは大変だと思うよ。 |
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