平井山本陣
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兵庫県三木市平井山
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国道175線「高木交差点」で東の20号線に入り、三木城の北側を通り、38号線の「宿原西交差点」から512号線を北へ走ります。
ここは三木城・別所氏と秀吉の日本戦史に残る「三木合戦」の地、その秀吉が陣を構えたのが平井山本陣(ひらいやま)なのです。
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三木城を何重にも囲みました。
その中心となったのがこの本陣、秀吉がいたんだよ。
いつも思うけど、現場に来ると、本当にいたのかなと感じてしまう。
悪いくせだね。 |
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今を去る四百有余年前、時は天正五年(1577)、主君信長から中国征伐を命じられた秀吉が、播州一円の攻略に当たっていたが翌年六月、播州三木の城主別所長治の討伐に向かい、この平井山に本陣を構え、数千の城兵が立篭る三木城を十重、二十重に包囲し、約三年の歳月を要して遂に陥落しました。
城主別所長治一族は、城兵の助命を請うて自刃、東播の地は完全に秀吉の翼下となりました。
時は天正八年正月十七日である。
秀吉もこの対陣中に軍師竹中半兵衛重治を失い、大きな痛手を受けたが、これが後年秀吉が自慢する三木の兵糧攻めであり、全精力を傾けて策略を練った本陣跡が此処なのです。
『現地案内を参照』
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「竹中半兵衛の墓」
平井山の陣中で胸を痛み、一時は京都で療養していましたが、戦況を心配してここに帰ってきました。
天正七年六月十三日、半兵衛三木陣中に死す、36歳。
法名水徹、平井山中で永眠する。 |
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