兵庫城
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兵庫県神戸市兵庫区中之島
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阪神高速「湊川IC」で降りて国道2号線を1kmほど走り、松原交差点を斜めに海側に入ります。 そこから800mほど行くと新川の橋があり、その橋の手前を山側に入ると、プロムナードと呼ばれる川沿いに「兵庫城跡」の石碑があります。
山側には山陽道が通り、海側には「大輪田(おおわだ)の泊り」と呼ばれる良港を持つこの兵庫は、平清盛の福原京遷都に始まり、源平の合戦や、南北朝時代・戦国時代の戦いに明け暮れたところなのです。
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「最初の兵庫県庁の地」とも刻まれている、初代知事は前の1000円札の伊藤博文だよ。
この石碑は、中央市場の中にあると思って、中を探し続けました。 とにかく、この辺りの地形は、東西南北がよくわからないよ。
それは主要道が東西に対して、45度斜めに走っているからね、事前に地図で確認しておいてね。
やっと見つけた碑、しかし職場から歩いても10分ぐらいの場所だったよ。 |
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天正八年(1580)、池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫は、それまでの室町幕府の権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに信長の手に入り、これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いきました。
その地点は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西、南北ともだいたい140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀がありました。
古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦があって、そのつどひどい戦災を受け、兵庫に古いものが少ないのもその為であると思われます。
しかし信長・秀吉による全国統一がなってからは、この地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていきます。
兵庫城跡は江戸時代に入って元和三年(1617)尼崎藩領となり、藩の陣屋として、明和六年(1769)幕府領となってからは大坂町奉行所に所属し、与力や同心の勤番所として明治になるまで続きました。
新政府は慶応四年(1868同年9月8日明治改元)一月二十二日に、この城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、二月二日に兵庫裁判所と名が変わり、五月二十三日にまた「兵庫県」と改められた。 つまりここが最初の兵庫県庁でした。
その後、県庁は同年九月十八日、今の神戸地方裁判所の場所に新築移転、さらに明治六年五月現在地に移転したのです。
明治七年(1874)、新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど川敷になってしまいました。
『現地案内を参照』
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「夕暮れどきのキャナル・プロムナード」
石碑がある場所です。
兵庫城は、町の外側に土塁を設け、堀をめぐらしていたそうです。 この土塁は外輪堤(そとわづつみ)といわれ、延1350mで幅2〜14mもあったそうです。
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兵庫の歴史の見所です。
平清盛時代
「平清盛廟(能福寺)」
「清盛塚・像」
「平通盛の局五輪塔(願成寺)」
「平経俊五輪塔」(写真)
「巌島神社」 など
尊氏・正成の時代
「後醍醐天皇湊川の宿(福巌寺)・霊水碑(薬仙寺)」
「本間孫四郎遠矢碑」
「楠木正成本の銅像(湊川合戦)」
「楠木正成本陣の碑(会下山の合戦)」 などかな |
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「神戸ウイングスタジアム」
兵庫城があった運河を少し下ると、2002ワールドカップが行われた「神戸ウイングスタジアム」があるよ。
あの燃えた日々は、もう日本で見ることができないよね。
歴史年表の2002年のところに載るかな、現在の戦いはスポーツだけにしてほしいものだよね。 |
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