魚崎構居
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兵庫県高砂市竜山
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JR曽根駅から南の明姫幹線(国道250号線)を東へ走り、「竜山交差点」で北へ入ると加茂御祖神社があります。 神社の背後の山が魚崎構居(いほざき)です。
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2005年3月、毎日見てる山だけど初めて来たよ。
ここは「石の宝殿」の南東、でも「いほざき」とは読めない、ほんと漢字は難しいよね。
広い場所の真ん中には碑、いろんな発見がありそうだよ。
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嘉吉元年(1441)、和木田兵庫介綱忠が城主でした。
天正六年(1578)、志方城主・櫛橋伊則の幕下として、秀吉による播磨攻めで落城するまで位田長兵衛から六代が居城し、のち浮田氏の家臣となりました。
『参考文献を参照』
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「空鉢塚」
加西市の法華山一乗寺の開基・法道仙人の空鉢伝説にちなんで建てられました。
インドで修行をしていた時、鉢を空に飛ばしてお布施を受けていたという伝説です。
この横には「芭蕉の句碑」がある、石川県の俳人・桜井梅堂の筆。 「花咲て 七日鶴見る ふもとかな」。 |
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「観濤所(かんとうしょ)」
明姫幹線にある「観濤所」の道標はよく見てた、でも読めないので、近寄らなかったよ。
神社から少し登ると読めなかった所に着く、すごく大きな石、背の2倍ぐらい。
きっと高砂の海を見る所なんだね。 |
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「怖いよ」
山は竜山石と言って良質の石が採れる。
約1億年前の白亜紀の火山灰、大和時代には古墳に使われ、姫路城や国会議事堂にも使われているよ。
ロープの左は狭い道、右の真下は遠くに地面が見えると思われる。
バンジージャンプできる人にしがみついても、ジンジンするかな。 |
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狭いけど平らな所が2つある、更に奥には水堀があるよ。
小さな池みたいな堀、草いっぱいの季節は気をつけてね。 |
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「石積み」
まさにびっくりとはこのこと、お城の石積みが残っていたんだ。
北東にも登山道がある、そちら側から登ると山頂に着く所にあるよ。
切り出した石を置いてるだけかも、この石だけはそっと置いておいてね。 |
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「本丸跡」
ここに城跡の碑がある、本丸なのかな。
向こうに見えるのが高砂、明石大橋や神戸も見えそう。
思い出すよ、下の明姫幹線がジャリ道だった30年ほど前。 近所に本屋が無くて、マンガを買いにジャリ道を自転車で高砂商店街まで買いに行ってたんだよ。 |
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「法華山谷川」
東に流れる法華山谷川、北へは志方城と続く。 秀吉に攻められた時には川を使って連絡していたのかな。
この山の向こう側(南)から登って、こちら側(東)へ降りてきた、右には採掘され半分無くなった山がある。
更に右には大きな石が水中に浮いてる生石神社だよ。 |
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「生石神社(おうしこ)」、水に浮いたよう見える大きな石が祀られ、日本三奇と云われているよ。
天正七年(1579)、秀吉が三木城攻略の時、別所氏に付いた神吉城を落とす為、この神社を陣屋として申し入れました。
しかし、神吉城主の弟だった宮司は断固拒否をしたのです。
秀吉は怒り、神社は灰になりました。 焼け残った梵鐘(つりがね)は、関ヶ原の戦で石田三成の部将大谷吉隆氏が使用し、敗戦後は家康が美濃の安楽寺に寄附をしています。(大垣市に現存)
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「春、うれしいな」
3月も終わりそう、のんびりと河原を歩いたらツクシが沢山。
今年も新聞紙には袴の山、指先は緑になってるよ。
「春」うれしくてジャンプ、川でも大きな魚がジャンプ。
釣してるおじさんの横、カエル君、一緒に飛びながら競争だよ。 |
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