石弾城
兵庫県加古川町木村

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  国道2号線を加古川を越えて東行一方通行をさらに400m、「河原」交差点を南へ走り、粟津南を西へ入ったところに「泊神社(とまり)」があります。 この神社が石弾城(いしはじき)の跡です。 どちらかといえば、南の250号線(明姫幹線)の「今福西」で北に入った方がわかりやすいと思います。

赤松氏に仕え、そして山名氏によって滅亡の道を歩んだ石弾城は、今では宮本武蔵のゆかりの地としても語られる城跡なのです。

 
  「泊神社(とまり)」

昔、天照大神が天岩戸に隠れられこの世が闇に包まれた時、神々が集まり議論を重ねた末、大神の怒りを解く為に二つの御鏡が造られました。

後にこの御鏡の一つは伊勢神宮に祀られ、もう一つは海へと流されたのです。

大和時代、当時はこの辺りまで海が迫っており、海に流された御鏡が海岸の檍(もち)の木のそばに流れ着いたことから、この地が檍原泊大明神として祀られたといわれています。
 

 


城主は、大井三樹伊豫守宰任従五位左京亮で、歴応二年八月三十日雁南荘地頭職を給わり、この城に居を構えました。

次宰の五男に雁南右衛門四郎勇という者がいて、永和元年五月五日父の跡を継ぎ、正六位に任じられ、主馬助と号し赤松氏に従っていました。

この勇の長男に雁南刑部太郎長という者がいて、亨徳三年家督を継いで木村源五郎と号します。

父にしたがって武功があったが、康正元年父勇討死の後、なおこの石弾城を固め守っていましたが、長禄元年三月、山名宗全に攻められて討死して遂に落城したのです。

『現地案内を参照』

 

  
 
「石弾城の跡碑」

南北朝時代の石弾城のものと思われる石垣や、宮本伊織が寄進した三十六歌仙図絵馬(市指定文化財)が残っています。
 
  「本殿の裏にある二基の燈篭」、承応二年(1653)に宮本伊織とその一族である田原正久が寄進したものです。

宮本伊織は武蔵の養子で、別所氏に仕えていた田原甚兵衛が米田の地(現 加古川市米田町・高砂市米田町)を訪れ、加東郡(現小野市)の女性との間にもうけた男子が伊織といわれています。

伊織は十六歳の時、明石城主・小笠原家に仕えていた武蔵のもとに召し使われ、養子となりました。後、主家が豊前小倉に所替えとなりそれに随行、島原の乱で功があり、やがて豊前小倉藩筆頭家老職となったのです。
 

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