鏑射山城
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兵庫県神戸市北区道場町生野
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中国自動車道、「西宮北IC」を降りて、東の国道176号線を北へ走ります。 西宮市から神戸市北区に入り、道場橋を渡って327号線を東へ、道なりに南に曲がり武庫川の「生野橋」を渡りると、すぐ北の鏑射寺を目指します。
このお寺がある標高327mの山頂には鏑射山城(かぶらいやま)があります。
2005年1月、南北朝時代は複雑な歴史。 二千年の種の生命も不思議、歴史って不思議な複雑さだよね。
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山頂には沢山の石が転がっている。
そこには直径3m、高さ30cmほどの土盛が5つあった、何の跡やろうね。
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鏑射山城は貴志義氏が築きました。
建武三年(1336)、赤松円心は摂津に兵を置いて、足利尊氏が九州から東上してくるのを待ちました。 尊氏が摂津まで迫った時、新田義貞は和田岬、楠木正成は湊川陣所に構え、そこで行われたのが「湊川の合戦」です。
この合戦の時、赤松方の部将・貴志義氏が瓦林城を守り、丹生山城(神戸市北区)や香下寺城(三田市)からの南朝方の攻撃を防いでいます。
延元三年(1338)、南朝方の北畠顕家が鎌倉を攻撃し、その後京都へ向かうと、新田軍も越前で勢力を回復、この神戸でも南朝方の勢力が持ち直しました。
この年、貴志義氏は唐崎城の東に鏑射山城を築いたのですが、南朝軍の湯山左衛門二郎(円忍)と金谷軍に攻められ城を脱出し、西宮の瓦林城で籠もりました。
この時点での南朝軍は、北は香下寺城、南は丹生山城、そして中間には鏑射山城といった長大な城塞を構えることになるのです。 (続きは唐崎城だよ)
『参考文献を参照』
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「鏑射寺」
獨鈷山鏑射寺(とっこさんかぶらいじ)といいます。
聖徳太子は、ご生母の里であるこの山に伽藍を建てました。
その後、弘法大師は井戸を掘られ、百丈岩に足跡を残されています。
でも南北朝時代、戦いの舞台となり焼失するのです。
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文久二年(1862)、勇阿上人により再建されるのですが、明治6年には三田九鬼藩の天誅組と称する不逞藩士が火を放ち太子堂などを焼失し、廃寺となりました。
そして昭和になって再建されたのが今の鏑射寺です。
ほんときれいなお寺だね、山頂へはこの三重塔から鏑射大権現の方に行くよ。
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「大賀ハス」
昭和26年、植物学者の大賀一郎博士が千葉市の縄文遺跡発掘現場で3粒を発見しました。
その1つが発芽し、2千年前のハスの花が咲き、その花を譲り受けたそうです。
なぜ電気やテレビを発明した人は2千年前に生まれなかったのかな、時間の不思議さだね。 |
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