ここ「構の城」の西、標高585mの山頂には、赤松円心の子・則裕が築き、孫・広瀬師頼に守らせた長水城があります。
嘉吉元年(1441)、嘉吉の変で赤松一族は滅亡し、のち応仁の乱で政則が復興した時、長水城には宇野氏が入り加順・村頼・政頼・祐清と続きます。(別説: 満利・裕秀・裕利・村頼・政頼・裕清)
天正八年(1580)、秀吉は三木城を落とし、英賀城を囲みながら、兵の半分はこの山崎町へ攻め込み、揖保川東岸の標高300mの愛宕山に陣を置きました。
宇野政頼・裕清の父子は、この構えで籠もり迎え打つのですが、三日間で攻め落とされ長水城へ退散するのです。
この戦いで、宇野氏と同族である置塩城四代目城主・赤松義祐の次男である教房は、秀吉側に付いて宇野氏を討っているのです。
『参考文献を参照』
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